多胡神社

高崎市上里見町 (平成23年4月22日)

東経138度51分13秒、北緯36度22分48.78秒に鎮座。

【神社情報・源夢さんより】
この神社は、長野新幹線・安中榛名駅の北3km程の辺りに鎮座しております。
日本三古碑の一つとされる『多胡碑』に和銅四年 (711) 片岡郡から山名郷を割き、五郷と合わせて多胡郡を創設したと記されている。片岡郡は当時六郷であり、多胡・長野・佐野・若田・高架(たかむそ)で、多胡郷は間野から現在の里見一帯と推定されている。創建は不明な『多胡神社』の所在地は間野であり、奈良時代には『間野荘』の存在が知られている。上流には石上神社や羊太夫の愛馬『権田栗毛』の故郷権田村があり、羊太夫との関係が伝わっている。

多胡郡の多胡一族が、この地に至り、祖神とする多胡羊 太夫藤原宗勝公を祀った神社のようです。安中市中野谷の羊神社も参考にして下さい。

上信電鉄・吉井駅の南1.5km程の辺りが吉井町多胡。そこに『多胡館』と呼ばれる館跡があります。

多胡館の築造年代や築造者は不明であるが、一説には多胡碑で有名な羊大夫の末裔が構築したとも言われており「後三年の役」後、小野妹子後裔とされる小野系図略図の経兼注に横山次郎経兼横山党三代は源義家に仕えたが上野国多胡四郎別当大夫高経は従わず義家は児玉党祖・有道(ありみ)遠峯嫡男、児玉有大夫広行に多胡氏討伐を命じた。広行は弟の有三別当経行を代官に任じ、惟宗(これむね)姓多胡高経を滅ぼした」と記されている。以後多胡荘は義家の恩賞により児玉経行の子孫が永く領有したものと思われる(児玉党出自考・河越氏の研究・埼玉苗字辞典)吉井町による平成十一年の範囲確認調査の部分的トレンチにより北側堀跡があり、先に述べた浅間B軽石が確認され降下年天仁元年(1108)以前に築造されたことが判明した。兄義朝が保安四年(1123)生まれで、多胡館の義賢築造説はここに退けられた。安中市中野谷に羊神社があり、氏子の多胡氏四十戸程が羊大夫を祀り、多胡宮羊大夫宗勝神儀位の石碑がある。同市下秋間にも多胡一族があり、同家墓地に羊大夫の墓があり高崎市上里見の多胡一族も羊大夫の石碑を祀っている。初代多胡氏末裔或いは高経の末裔ではないかと考えられる。

神社全景

参道入口

社殿

「多胡宮霊羊宗勝神儀位」碑