高賀神社

関市洞戸高賀1212(平成20年11月23日)

東経136度51分24.91秒、北緯35度38分49.87秒に鎮座。

この神社は、高賀六社の一社で、高賀山を挟んで本宮神社の反対側、関市に鎮座しております。256号線・高賀口より高賀川にそって北東へ向かう道を登って行くと、正面に大鳥居が見えて来ます。

 霊亀年間(715-717)に夜な夜な怪しい光が出て当地の方向に飛んでいくのを、都の人々が目撃し驚いた。そこで高賀山の麓に神壇を飾ったところ、この光が出現しなくなった。これが高賀山本神宮の始まりである。その後、牛に似た妖怪が住みつき、村人に被害を加えていたので、承平三年(933)に天皇の勅命を受けた藤原高光がこれを退治し、高賀山麓に神々を祀ったという。また、天暦年間(947-956)にも妖怪が出没し、再び藤原高光が退治した。この時、高賀神社(洞戸)、那比神宮神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並町)滝神社(美濃市)、金峰神社(美濃市)六社が祀られた。近世になると、三度妖怪が現れ、近衛天皇の時(1142-1155)頭は猿、体は虎、尾は蛇の姿をした怪獣が現れ、とされ今日まで「さるとらへび伝説」として伝えられています。なお、美並村を流れる粥川の鰻が藤原高光の案内をしたと伝えられて、今日でもこの地区の人々は鰻を殺さないとのことで、現在、ここに生息する鰻は天然記念物に指定されています。
 高賀神社・高賀山信仰は、現存する文化財から次のような歴史が言われています。平安時代末期には既に仏教道場として繁栄し、観音信仰があったと考えられ、また、鎌倉時代後期には虚空蔵菩薩信仰が導入され「高賀山修験」が成立したと言われている。また、鎌倉時代以降から明治時代の神仏分離までは、神道の神の姿をとらず、本地仏としての虚空蔵菩薩を主神としてきたとされ、岐阜県と石川県に跨る白山を中心とした白山信仰に見るように、人々の生活を守る神、自然崇拝の神としではなく、高賀山麓一帯の農耕に大切な水や雨を司る神の山として尊ぶその信仰がこの地に成立した。
境内由緒書より。

高賀神社23柱の神々の初めに「天之御中主尊」と書いてあります。嘗てはここも虚空蔵菩薩を主神としてきたと由緒書にあり、明治の時後祭神を差し替えたようです。何故星宮神社や新宮神社はそのまま虚空蔵菩薩を御祭神とし、ここ高賀神社の御祭神は天之御中主尊となってしまったのでしょうか。廃仏希釈も激しく行われたようです。境内の大日堂を取り壊し、神社境内にある仏像すべてを1.5km下流の観音堂(現・蓮華峯寺)へ移したということです。

元禄9年(1696)の高賀神社社殿。虚空蔵社・八幡宮社・大行事社・月日社・牛頭天王・大日堂・金剛童子社・峯権現社・山之神社。明治以前は高賀神社と蓮華峯寺を合わせて、「西高賀山・蓮華峯寺」と称していたという。拡大写真はこちら。

嘗てはこの道も参道だったのかも知れません。車道を跨いで立つ一の鳥居。

高賀川に架かる橋の欄干にいる円空さんの狛犬。

円空狛犬のレプリカが参拝者を出迎えてくれます。拡大写真はこちら。

二の鳥居

三の鳥居が立つ境内入り口。右手の建物は円空記念館。

高光公妖怪退治の像。星宮神社由緒書では高光公が退治したのは西の岳の妖鬼と、後は妖鬼の亡魂=南の岳の大鳥だとかいてあります。何時ごろお話が変わったのでしょうか。高賀神社解説はこちら。

拝殿正面と内部

拝殿

本殿は元禄時代と同じ配置のようです。中央の大行事。最初が「高賀山大本神宮大行事神社」だったと言うわりには左右の八幡や虚空蔵に比べて小ぶりに見えます。ローカルな神より、全国ブランドの神のほうが御利益が大きかったのでしょうか。

牛頭天王 八幡
虚空蔵 月日社