武田八幡神社

韮崎市神山町北宮地(平成17年6月5日)

国道20号線から、韮崎市役所前で武田八幡神社線に入り釜無川を渡り、道なりに右折韮崎西中を左折したら突き当たりが武田八幡神社です。私は甲府市の武田神社よりこちらの神社の方が、ずっと落ち着いた佇まいでゆっくりと参拝でき、神社の持つ神秘性や静謐さを感じ好感が持てました。この神社は石垣の上に石鳥居、すぐ後ろに総門が建ち、参拝者は両脇の石段から鳥居や門を潜らずに境内に入る不可思議な造りです。総門の後ろはすぐ石段でそれを登ると神楽殿、さらに上ると拝殿にでます。拝殿の脇から土手を登って行くと、本殿と若宮八幡社本殿を見ることができ、流石重文に指定されるだけの事はある、と思える見事な造りでした。由緒、案内は長くなるので下記にてどうぞ。

武田八幡神社線上にある大鳥居

鳥居と総門

太目の石鳥居

ご神木

荘厳な総門

下の境内の合祀社

神楽殿

更に石段を上がると拝殿

大きく立派な拝殿

手前が若宮八幡社本殿

桧皮葺きが綺麗な重文の本殿、左右から

境内上の合祀社

【看板資料より】
 武田八幡神社
当社は社記によると嵯峨天皇弘仁13年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に拠って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文10年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切々たる願文は今に伝えられ武田家には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。
 由緒、歴史
武田八幡宮は弘仁13(822)年、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し竪五尺横四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社を氏神と定め尊崇した武田太郎信義の没後3,4年を経た承久2(1220)年に信義の弟加賀美次郎遠光が「本社末社123の鳥居迄造営御座候」と修復整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の年武田晴信朝臣の御代御神殿をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給いて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄14(1701)年に再興、寛政元(1789)年に再再興したという記録が刻まれている。その後、昭和54年に屋根の修理が行われ、更に平成11年着工の大改修に至った。
興石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に興石東面が約3.5メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が激しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、興石まで行われている。社記によると二の鳥居場は110坪あり、御田祭などの祭事も執り行われた。昭和60年2月に二の鳥居附興石は韮崎市指定有形文化財に指定され、更に平成12年10月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。