熊野神社

南巨摩郡富士川町舂米1 (令和4年4月4日)

東経138度27分03.95秒、北緯35度34分11.54秒に鎮座。

この神社は、富士川町役場の北西1.5km程の辺り、舂米の街中に鎮座しております。

御祭神 事解男命・速玉男命・伊弉冉命

由緒
明治28年(1895)の熊野神社の由緒によると、明王寺(正式には大聖金剛山息障院明王寺)は開祖である儀丹行圓上人によって宝亀元年(770奈良時代)に開創され、同時期に儀丹上人によって熊野権現を勧請し権現堂山山中(現舂米南山川久保上)の社「権現堂」に祀ったことが起源である。社号については、「往古ヨリ熊野権現ト称セシモ維新後ハ熊野社ト改ム」としている。
江戸時代までは「熊野権現」と言われ、権現堂の社に熊野三神を祀ってあったが、その後文久年間(1861〜1863)に社地が崩落したため元々明王寺の鎮守であった完成したばかりの明王寺の不動堂に御神体を遷座合祀し、明王寺の御本尊大聖不動明王と神仏混淆となった。不動堂は江戸末期まで明王寺の中心道場であったことが「国志」にある。
明治維新後の慶応4年(1868)3月に発した太政官布告「神仏分離令」によって神道と仏教を分離させられたために、熊野権現と不動明王を祀ってあった明王寺不動堂から不動明王を明王寺の庫裡に移し、廃仏毀釈の争いごともなく建物と境内地は熊野神社として舂米に寄進され、区民の氏神として地域の核となって信仰を得ている。
廃仏毀釈が行われたことによって、明王寺本堂として当然伝わるべき不動堂が熊野神社となり、明王寺の中心にあたる参道が明治以後熊野神社の参道となっている。
現在の熊野神社の建築様式は、明かに江戸期の建造物で不動堂である。その前の鳥居も当時の遺構である。
11月3日の例大祭の神輿渡御では、熊野神社(里宮)を出発した神輿が区民の安寧祈願のため急な石段を登って権現堂(奥宮)御幸している。
境内由緒書き より。

一の鳥居

参道

二の鳥居

社殿

社殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和19年(1944)11月3日建立)


石祠