豊榮・野田神社

山口市天花1-1(平成20年7月31日)

東経131度28分58.43秒、北緯34度11分3.16秒に鎮座。

この神社は、この神社は、JR山口線・上山口駅の北1km程の辺り、今八幡宮のすぐ北側に南を向いて並んで鎮座しております。別々の神社のようにも見えますが、入り口、社務所等は一つしか無く、どちらも毛利氏を祀った神社と言うことで、一緒に記載します。現在では今八幡宮住所は八幡馬場と違っていますが、嘗てはこの地も今八幡宮の境内であったと思われます。

豊榮神社の住所は1-1-1、野田神社は1-1-2、因みに山口県神社庁は1-1-3。ようするに同じ敷地内にあります。昭和41年(1966)6月この地に移転して来たようです。

豊榮神社由緒
江戸時代初期の慶長九年(1604)、毛利輝元公は萩城に入城された。この時、毛利元就公の霊を近くの春日神社に祀られた。宝暦十二年(1762)、二ノ郭にあった土地神社を改造し、元就公の霊を遷祀。朝廷より、明和七年(1770)仰徳大明神の神号、明治二年(1869)に豊栄の神号を賜う。明治四年(1871)、山口の現在地に社殿を造営して遷座。明治十五年(1882)別格官幣社に列せられる。

野田神社由緒
明治六年(1873)、山口県の人々の懇願により、毛利敬親公の霊を豊栄神社境内別殿に祀り、忠正神社と称する。忠正は敬親公の諡号。明治九年(1876)、地名により野田神社と改称し、同日県社に列する。明治十九年(1886)、現在地に社殿を造営する。明治三十一年(1898)、毛利元徳公を合祀する。大正四年(1915)別格官幣社に列する。大正五年(1916)、摂社芳宜園神社を創立して元徳公を分祀する。昭和十一年(1936)、元徳公四〇年式年に当り、朝廷よりその勲功を賞せられ野田神社に配祀する。

以上山口県神社庁より。

明治維新の原動力となったここ、長州。朝廷も明治政府の高官となった長州人に気を使ったのだと思います。

社号標と神社入り口

境内全景。右手の建物は社務所。奥左手が野田神社。右手が豊榮神社。

参道。正面は野田神社。

参道の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治24年(1891)4月吉祥日建立)

野田神社神門

野田神社拝殿

野田神社幣殿

野田神社本殿

豊榮神社参道

豊榮神社神門

豊榮神社拝殿

豊榮神社幣殿

豊榮神社本殿

能楽堂

絵馬堂