田辺市湊(平成18年3月28日)
この神社は紀勢本線・紀伊田辺駅の南南東約450mに鎮座しています。
神社由緒略記によると、允恭天皇8年(419)、熊野権現(現本宮大社)をこの地に勧請し、「田辺の宮」と称しました。ついで白河法皇の御代に熊野三所権現を勧請した為別宮的な存在となり、三山御参詣に替えこの宮に参詣すれば、中辺路の山中の道を行かなくとも熊野詣でと同じ御利益があるということになったようです。近衛院久安3年(1147)には別当湛決が、新に天照皇大神以下十一神を勧請したことにより、「新熊野権現(いまくまのごんげん)」と称するようになりました。そして、その子湛増が源平合戦の時紅白の鶏を戦わせ源氏に味方する事を決め、熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣し、平氏を滅亡へと導いた、と言う故事により、「新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)」、「新熊野闘鶏権現社」などと称されるようになりました。「闘鶏神社」という現社名は明治期の神仏分離令に沿って改称したそうです。主祭神は伊邪那美命(本殿)ですが、その他の御祭神は下欄の社殿紹介欄にてどうぞ。
7月24〜25日に執り行われる例大祭・田辺祭は県無形文化財に指定されています。
写真でも分かるとおり、神社の背後には世界的博物学者・南方熊楠が熊野植物研究の中心基点としていた、仮庵山が聳えています。熊楠はこの山をことのほか大事に思い、この山の大楠が伐採された時には猛烈に抗議、そのおかげでそれ以上の伐採は免れたという逸話が残されています。