日吉神社

米子市淀江町西原767(平成21年7月29日)

東経133度25分15.61秒、北緯35度26分53.33秒に鎮座。

 この神社は淀江文化センターの南に鎮座しています。地図の神社マークは社殿の位置を示しているのですが、それが山陰本線南に書かれているのでそちらに行こうとしていたら、何とこの社の参道は山陰本線北側に入口があり、参道は山陰本線を挟んで付けられています。
 広い駐車場のある入口から大きく深い鎮守の杜が見え、綺麗に整備された参道を進んでいくと、踏切があります。線路の向こう側には石段の上に随神門が見え、森は益々深く薄暗くなってきます。その中に神使いである猿や狛犬がおり、神橋を渡ると石段の上に境内があります。境内の周囲も深い森で、その中央に千鳥破風、唐破風の付いた豪華な拝殿や、重厚な本殿が建立されています。境内周囲には様々な境内社も祀られていました。
 地図上では大神社も小規模神社も全く区別が付かない表記ですので、この社の規模も全く分からずに参拝した訳ですが、その佇まいの余りの素晴らしさに二人とも大感激…今回の旅での想わぬ拾い物…という感じの神社でした。

 御祭神:大己貴命、少彦名命、猿田彦命、素盞鳴尊、建御名方命、武甕槌命、稚産霊命、保食神、天日方奇日方神、蛭子命、稲脊脛部命、倉稲魂命、稲田姫命、稚日女命、天照大御神、天之佐奈盗_
 祭礼日:例大祭・5月3日、秋季祭・10月17日
 境内社:稲荷神社、日御崎神社、天之佐奈盗_社他二社
 由緒:この社の創建年代は不詳です。往古は佐奈搭{と称し、三代実録に「清和天皇貞観十六年(874)七月戌子、正六位上天乃佐奈盗_に従五位下を給ふ。」と記されています。後、山王宮が勧請されました。
 慶長年中、中村伯耆守の重臣横田内膳正村詮の寄進状にも「佐奈盗_領、又は佐奈搭{神主」とあります。
 戦国時代兵火に罹り社殿は焼失してしまいましたが、大永四年足利義政妾腹の子谷若狭守威安が淀江村に居住した時社殿を建立、その後、吉川駿河守も慶長年中に社殿を造営されたと棟札にあります。藩主・池田光政公が米子に入城の際参拝され、烏帽子、沓及び銀子若干を奉納しています。
 付近に佐奈涛c、佐奈湯r、佐奈湯ヒがあり、何れも佐奈盗_の旧蹟と伝わっています。
 明治五年三月郷社に列せられ、日吉神社と改称しました。明治四十年十二月十九日神饌幣帛料供進神社に指定されています。

 毎年5月3日に実施される神幸神事は、米子市指定の無形民俗文化財で、江戸時代の寛永14年(1637年)以前から370年以上続いています。詳しい起源は明らかでありませんが、大山あるいは日御碕神社との間に行われた神輿渡御と伝えられています。200人以上の氏子が、江戸時代の装束で行列をつくり、寺社奉行を中心とする「先導グループ」と、それぞれ神輿を中心とする「前グループ」と「後グループ」の3グループで構成されます。「よいとまかせ」のかけ声をかける奴の間を、馬に乗った奉行役とその馬を引く馬子が行き来し、神像(猿太彦命と宇豆女命)、幣か旗、榊、幡か幟、幣、道神楽、神輿、神職という順序で、山車を引いて歩きます。前後2グループの形をもつ神輿渡御は、県下唯一のものだそうです。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

社頭
入口の明神鳥居 社号標
参道の様子
参道途中にいる昭和13年生まれの出雲丹後狛犬
阿はお腹の下に玉を持った親そっくりの子狛を連れています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和13年(1938)3月吉日建立)
参道を貫く山陰本線の線路と踏切
随神門
境内前の参道の様子
日吉・山王系神社の神使いである猿の像
(二体ありますが、このお猿さん達は対になっているわけではありません。)
建立年代不明の出雲丹後狛犬
(しっかりした造りの良い狛犬なのですが、余りの暗さに夫は正面写真だけで諦めてしまったようです。)
神橋と石段参道
境内入口 二の明神鳥居
千鳥破風、唐破風の付いた豪華な拝殿
大社造りの本殿
境内左側の境内社
境内社を護る建立年代不明の出雲丹後狛犬
摩耗や欠損が激しく、チョッと痛々しいがします。
狛犬の拡大写真はこちらで
境内社:稲荷神社
境内社:日御崎神社、天之佐奈盗_社入口
  
境内社:日御崎神社 境内社:天之佐奈盗_社(サナメ社)
日御崎神社を護る建立年代不明の小さな狛犬
阿吽の位置が反対で天を仰ぐように上を向いています。顎下の鬣の造りが佐渡狛犬と似ています。
境内最奥右側に祀られる境内社
境内社を護る小さな狛犬
殆ど首や胴体が無く、頭と太く大きな尾が目立つ、可愛い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治4年(1871)4月吉日建立)
境内最奥左側の旧社殿跡?
鎮守の杜の様子と御神木