柳森神社

千代田区神田須田町2-25-1 (平成23年6月7日)

東経139度46分36.18秒、北緯35度41分36.67秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR秋葉原駅中央改札口を出て右側(南側)へ行き、東北新幹線のガード脇の路地(ガードに神田駅への矢印があります)へ入って行きますと橋が有り、その階段を上りますと神田川と神社がみえます。(おすすめの順路です)境内は狭いが多くの見るものがあります。一番の人気は2匹の猫でした。

御祭神 倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ)
御由緒
室町時代、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社である。また、おたぬき様と呼ばれる親子狸のお守は、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されている。
東京都神社庁 都内神社の紹介 より

神田川、神社への路地入口 神田ふれあい橋

神田ふれあい橋&東北新幹線

東北・上越両新幹線東京駅乗り入れ工事に伴うJR鉄橋工事用の橋が、地元の要望でそのまま一般開放されたという、「神田ふれあい橋」。いかにも公務員が付けそうな臭い名前であります。多分地元の方か通勤客しかご存じないと思われます。かくいう私も、東京に住んで60年、初めてその存在を知りました。

神田川&神社遠景

鳥居

石段を降って参拝するという、やや珍しい神社。嘗てあったという「柳原土手」より内側に鎮座していた為でしょうか。

拝殿

知的で端正なお顔立ちのお狐様
(年代不明)

本殿


福寿神社

福寿神由来
五代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりと称して創建された。桂昌院様は、京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公のご生母となる。
大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。
後世、元倉前甚内橋際向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治2年現在の柳森神社に合祀されました。
境内案内板 より

桂昌院の本名は「お玉」。「玉の輿」なる言葉はここから生まれたようです。かって洛北を旅していたら、桂昌院寄進の寺院が結構あり、我が子綱吉が子宝に恵まれるように出身地の寺院に寄進を重ねていたと思われます。流石将軍家の御生母。昼飯を食べながら、飯屋のママさんとそんな話をしていたら、「今でもこの辺にはお玉さんがいっぱいいるんですよ。向かいのお婆さんもお玉ってゆうんですよ。」...........現代版玉の輿をねらっているだろうか。

福寿いなりと称して創建された神社が狐でなく、どうして狸となったのでしょうか?
(年代不明)

社殿

お返し。願いが叶って玉の輿に乗れたのでしょうか。


境内社・金比羅宮 末社・秋葉大神
末社・明徳稲荷神社 末社・水神厳島大明神、江島大明神

幸福社由来抜粋
幸福社は元芝増上寺大門付近にあり、岸のいなり、幸稲荷等称されていました。
ご創建は第100代後小松天皇の御代、足利義満の金閣寺と同じ頃とされています。
増上寺の寺域拡張の為、岸町の住人は神田に代地を受けて移りました。
今の富山町の一隅に一祠を建立し富山町、東松下町500余戸の氏神を祀りました。
中略、以下要約
堂守りの人から御神霊を戦火(東京の空襲)から守る為預かってほしいとの依頼を柳原宮司が受けました。その直後、富山町、東松下町一帯が灰燼に帰してしまった。
正式には昭和22年当社に合祀されました。
境内案内板 より


手水舎&石碑群

富士講関係石碑群
柳森神社は、延宝八年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を、合殿・合祀しました。また『東都歳時記』には、天保期 (1830〜44)ころの「富士参」の例として柳森神社があげられています。これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らかの理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和五年(1930)に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群は、この時再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和三五年(1960)に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内に積み上げて小山を築き、この周辺に富士講石碑群を設置しなおしました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることになりました。・・・・・・・・・
境内案内板 より

三柱乃大神

不明


力石群

「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石にかかわる信仰は多い。また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
この境内にある「力石」は、大正年間(1912〜1926)、当時この道の力士として有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。
なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で有名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治(次)郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。
これ等「力石」は、江戸・東京の若者たちの生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。
千代田区教育委員会。原文はこちら。

神楽殿

このベンチは人が絶えませんでした。ネコには十分エサをあげているのでエサをやらないで下さい。とのこと。でもネコはほしがっていますね。

社務所前、陶器製狛犬。

青面金剛像