紀文稲荷神社

江東区永代1-1-14 (平成23年7月18日)

東経139度47分40.69秒、北緯35度40分21.78秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
東京メトロ東西線「門前仲町」駅より徒歩10分程の所(御船(みふね)橋の西側)に鎮座しています。神社の西方には隅田川が流れています。広くない境内には力石が数多く置かれていました。

御祭神 宇迦之御魂神

御由緒
江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御璽を拝受しこの地にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です。
紀国屋文左衛門は第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保・萩原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運び、また材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称されたことはあまりにも有名です。
紀国屋文左衛門の店は八丁堀にあり、その下屋敷が現在第一勧業銀行(現、みずほ銀行)深川支店あたりにありました。当時この付近一帯は運河が縦横に走り、此処に紀国屋文左衛門の船蔵のあり、航海の安全と商売の繁昌を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです。
以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが、窪田家の没落とともに祀る人もなく荒れるがままに放置されておろました。
昭和の始め頃、この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ、何処かに放置されたお稲荷様があるはずで、そのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き、当時草原と化していたこの付近を捜索した結果、荒れ果てた祠を発見し、肥料商人中田孝治が発起人となり現在の社殿を建立お祀りしたところ、疫病は平癒し商売も大繁盛しました。
爾来商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました。富士浅間神社・龍神様は中田孝治が冨士講の講元をしていたことから富士浅間神社の御璽を拝受してお祀りしたものです。
元の境内は現在地より北西約30米の奥まったところにありましたが、昭和六十二年大和永代ビルディング建設に伴い三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により昭和六十二年三月三十一日遷座祭を執り行い現地に移転しました。
又境内にある石は、この付近にあった米問屋肥料問屋等で働く力自慢の人達が差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。 (以下省略)
境内石碑(昭和63年5月吉日) より

神社入口

鳥居と社額

社殿

昭和のお狐さま

富士浅間神社(左)&龍神様(右)

手水舎&石灯篭

力石

神社遠景