太平山神社

栃木市平井町 (平成16年6月13日)

東経139度41分46.8秒、北緯36度21分33.7秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】追加!
先日(平成21年6月21日)、栃木市にある大平神社に行ってきました。天井の竜を公開していると新聞で知り、是非とも見たかったのです。竜は、なかなか迫力があって見事なものでした。伝説の木彫りの像「火防の獅子」も見られました。ちょっと恐い感じのする狛犬です。残念ながら、内部の撮影禁止ということなので写真は建物だけです。大平神社に来るのは、実に久し振りでした。新聞の切り抜きはこちら。

この神社は、両毛線・大平下駅の北2km程の辺り、太平山に鎮座しております。紫陽花で有名な神社ですが、参道入口に立つ連祥院六角堂。その由緒書に「天長四年(827)慈覚大師円仁により創建」とあります。明治の神仏分離以前は山全体が寺院で、その中の一つに太平山大権現を祀った「太平山大権現社」があったと思われます。現在の御祭神は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)、その他。となっていますが、勿論明治以降ことと思われます。

太平山神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ) が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も前のことですが、太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺 跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じ ることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の 祝詞にも伝えられています。こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。この後、太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地とな り、摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。
さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが、天正13年(1585)の戦火で、これら淳和・後小松両天皇の額は 焼失してしまいました。
戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど、関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。 天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には早くも復興し、徳川幕府から朱印地50石を認められました。さらに寛政年 中(1789〜1801)には「御願御抱場」となるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。『雲上明鑑』『雲上 明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど、武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。
太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。太平山神社公式サイトより。

あじさい坂と呼ばれる参道入口。境内迄は600m程。鳥居を潜り、すぐ左手が連祥院六角堂。

連祥院六角堂
当山は、天長四年(827)慈覚大師円仁により創建されました。もとは太平大権現社の別当寺院として山上にあり、第五十三代淳和天皇の勅願寺として栄え、多くの人々により信仰されてきました。しかし、明治期の神仏分離令により、山上からおろされ、明治三十八年に現在の本堂、六角堂が建立されました。堂内中央には、本尊 虚空蔵菩薩、右側に愛染明王、左側に不動明王が安置されています。
境内由緒書より。

嘗ては神仏が混淆しており、山頂には慈覚大師円仁が創建した太平山大権現社、連祥院六角堂の御本尊、虚空蔵菩薩を安置した本地堂、釈迦堂、深沙大王、東照宮、文殊堂、太子堂、大黒天、毘沙門天、大日堂の堂宇が立ち並んでいたようです。廃仏毀釈の嵐の中で良くここの虚空蔵菩薩は難を逃れたものです。クマちゃん通信員が見に行った天井の竜は星宮神社の天井絵ですが、連祥院本尊、虚空蔵菩薩は星宮神社に安置されていた筈で、その頃は、本地堂と呼ばれていたようです。

我々が由緒書を読んでいると、住職さんでしょうか、声をかけて下さる方がおり、お話を伺うことが出来ました。
家綱の生母、本名は蘭というようだが、高島御前と呼ばれ、この太平山の麓、下野国都賀郡高島村(現栃木県栃木市大平町)の出身であったそうな。その高島御前が深く太平山を崇尊していたので、徳川家との深い繋がりが出来、以来大いに繁栄したそうです。

宝樹院(高島御前の法名)
下野国都賀郡高島村(現栃木県栃木市大平町)の農民(後に下級武士)青木三太郎利長の娘(朝倉惣兵衛の子ども)。父は江戸に出て旗本の朝倉家に仕官するが、主君の金を使い込み江戸を追われ鹿麻村で蟄居となり、のち禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となる。
父の死後、母(増山氏)は江戸へ出て古河藩主永井尚政の屋敷に仕えて女中頭となり、元永井家家臣で古着商の七沢清宗と再婚。楽も母に従い同居していたが、13歳の時に店の手伝いをしていたところ浅草参りから帰ってきた春日局の目にとまり、大奥に上がる。また、祖心尼の計らいで奥入りしたという説もある。一説によると楽が呉服の間だった頃、他の奥女中たちに故郷の麦搗き歌を歌っていた。これを家光が耳にして気に入りお楽は家光の側室となったという。
寛永18年(1641年)に家綱を産む。将軍後継者を産んだため、弟・増山正利は三河国西尾藩主(この系統はその後常陸国下館藩主→伊勢国長島藩主となり幕末まで存続)、那須資弥は下野国烏山藩主(次の代で改易、以後交代寄合として存続)、妹は今川氏真の孫品川高如の妻となる。慶安4年(1651年)に家光に先立たれた翌年、32歳で死去。法名は宝樹院殿華城天栄大姉。墓所は寛永寺勧善院。
ウィキペディアより。

5代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院は本名をお玉といい、洛北、八百屋の仁左衛門の娘とだといわれる。それが、将軍の生母として威勢を振るったのだろうか、以来「玉の輿」なる言葉が出来たようです。しかし、「お蘭の輿」なる言葉は生まれなかったようです。32歳という若さで亡くなったせいでしょうか。

紫陽花

あじさい坂。嘗ては両側に三光院、多聞院、法泉院、報恩院等が立ち並んでいたようです。

アジサイ坂途中の江戸尾立狛犬。良い面構えで逞しいお姿です。拡大写真はこちら。

(年代不明)

随神門。明治以前は連祥院の仁王門。

栃木市指定有形文化財 太平山神社の随神門
神門は享保八年(1723)の建築で前に左右大臣、後ろに仁王の守護神を配したもので太平山が寺院の山として栄えていた頃の名残りである。廃佛毀釈後仁王門が随神門となり仁王と神像の安置場所がかわったわけであるが、それ自身神佛混淆時代の記念物である。建て方は入母屋造り扇垂水で俗に傘(からかさ)天井という。
栃木市教育委員会。

随神門の裏側にいる狛犬。拡大写真はこちら。

(天保13年(1842)11月建立)

三光神社の額が掛かる鳥居。嘗ては三光神社とも呼ばれ、三光天子(さんこうてんじ)を祀っていたことに由来するようです。「三光天子」とは、日天(太陽)・月天(月)・明星天(金星)の三つをいい、天とは「神」を意味するようです。法華経では、日天・月天・明星天の三天を仏法守護の神として説かれていることから、この地に祀られたと思われます。インドでは明星(アルナ)は払暁の「紅色」を意味し、帝釈天(インドラ)の従者で太陽神(スールヤ)が誕生する以前に世界を照らすものとなったという。ようするに、この世を照らす太陽、月、金星を神格化したものと思われます。

太平山神社は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)をはじめ、多くの神様をお祀りしています。
第53代淳和天皇の御代、風水害や疫病で人々が苦しむさまに淳和天皇は御心を痛められ、「下野国(今の栃木県)の霊峰三輪山に天下太平を祈る社を造営せよ」との詔を賜り、日の神であり太陽のように命を育む「天照皇大御神」、月のように人々に安らぎを与える「豊受姫大神」、星のように人生の道案内をしてくださる「瓊瓊杵命」、この「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りするために太平山神社が造営されました。すると忽ち世の中は治まり、大いによろこばれた淳和天皇は、勅額を下賜されたのです。
そして、もともと此地でお祀りされていた神様は奥宮(剣之宮・武治之宮)に鎮座されました。
以来、太平山に鎮座している神々は「国を太平に治め、社会を平和に導き、家内の安全を守り、商業を繁栄に導き、人々を守護する祈願成就の神様」として万民の心を支え、篤く信仰されるようになりました。「おさめの神、鎮まります御山」である太平山には御神徳あらたかな神々が鎮座しており、多くの祭典が今日尚執り行われ、人々の幸せを祈り続けているのです。
太平山神社公式サイトより。

参道最後の石段と勅使門

境内

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

平成16年6月に訪れた時は、拝殿と本殿の間に居られました。その後拝殿前に移られたようです。しかも宝珠と角が生えています。

狛犬も人間と同じようです。裏にいた時は今一冴えない表情ですが、拝殿前では実に堂々としています。相応しい居場所を得たようです。

本殿


交通安全神社

交通安全神社を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

星宮神社。連祥院六角堂本尊虚空蔵菩薩は、ここに安置されていた筈です。

稲荷神社

三輪神社

足尾神社

皇大神社・稲荷神社・厳島神社・上官神社・天満宮・大杉神社・織姫神社・浅間神社・愛宕神社・八幡神社

愛宕神社・八幡神社


奥宮入口と案内

この後、道は太平山山頂・富士浅間神社、晃石山頂・晃石神社へと続きます。


お茶屋さんが並ぶ謙信平の上、最後の「あづま家」さんの脇から続く脇参道。現在表参道と言っている正面の石段は最後が勅使門といっているので、庶民はこちらから参拝していたようです。お茶屋さんが並んでいるのも江戸時代からでしょう。ここ太平山名物は団子、焼き鳥、玉子焼。夜泣きの鳥は不吉と忌み嫌われ、神社に奉納した鳥が増え、その肉や卵を料理して信者に振る舞ったことが起源だそうです。団子もおさご(賽銭代わりの米)を粉にして作ったもの。三大名物全てが神様に捧げたものから作られたと言うことです。