中国山地を背にして、日本海に面している島根県は全国18位の面積と46位の人口を持つ、現在ではとても人口密度の低い県です。細長くて日本海に傾斜している島根県を流れる川は急流が多く、上流からおし流す土砂の運搬作用が活発で出雲平野・益田平野などの平野が形作られました。
歴史的に見ると古代の島根県は出雲・石見・隠岐の三国から成りたち、神話の舞台となった出雲は、出雲大社をはじめ、現存の大社造の社殿としては最古の本殿を維持する神魂(かもす)神社など、数多くの古社があります。また、出雲国風土記の巻頭を飾る「国引き」の神話は古代出雲びとの壮大なロマンを語っています。石見には万葉の歌人柿本人麻呂が国司として赴任し、石見の美しい情景を妻への想いとともに情熱的にうたいあげました。日本海に浮かぶ隠岐には、都びとの流人とともに中央文化が流入し、数々の貴重な伝統文化を残しています。
鎌倉幕府が成立すると、全国に守護が置かれ、出雲、石見、隠岐の守護はいずれも近江の佐々木氏でした。しかし石見守護だけは承久の乱に敗れたため、以後は益田氏が実質的な守護となりました。
室町時代になると、出雲、隠岐守護には京極氏、石見には大内氏が任じられましたが、応仁の乱後、京極氏の守護代尼子氏が急速に強大化し、奥出雲の砂鉄や石見銀山を手に入れて、16世紀初めの最盛期には山陰、山陽にまたがる大戦国大名に成長しました。しかし、永禄9年(1566)安芸の毛利元就によって滅ぼされました。
関ヶ原の合戦後、出雲、隠岐の太守として入国した堀尾吉晴は、松江に築城しました。その後、寛永15年(1638)徳川家康の孫、松平直政が入城して親藩松江藩が誕生し、明治維新まで続きました。茶人大名で有名な7代藩主治郷(はるさと・不昧公)のとき、藩政改革に一応成功しましたが、幕末の激動期にはその対応に苦しみ、維新政府による鎮撫使の派遣を受けました。
石見は銀山領(天領)、浜田藩、津和野藩から成っていますが、石見銀山は17世紀前半、わが国最大の産出量を誇りました。浜田藩主は複雑に代わりましたが、幕末には親藩松平家となり、そのため長州の攻撃を受け、浜田城は炎上しました。津和野藩は坂崎出羽守に次いで亀井氏が藩主となりましたが、幕末には長州と結んで倒幕運動に参加しました。
隠岐は天領に編入されました。
明治維新期の行政区域は複雑に変わり、明治9年には浜田県が島根県に編入、次いで8月には鳥取県も合併され、出雲、石見、隠岐、伯耆、因幡5カ国をあわせた大島根県が誕生しましたが、最終的には明治14年に現在の島根県が誕生しました。
島根県の県名は、明治4年11月に名付けられました。県庁所在地(松江市)が古くは島根郡(出雲国の東北部、島根半島の東部)に属していたためだとされています。島根郡という地名は、『出雲国風土記』に「島根と号くる所以は、国引き坐しし八束水臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給へるなり、故、島根と云ふ」とあり、八束水臣津野命によって名付けられたとされています。また、それまでの県名(松江県)が使われなかったのは、明治維新の際に松江藩が倒幕に消極的な立場をとったためであると言われています。なお、島根という言葉は島または島国の意味で、根は島に付く接尾語です。(島根県庁HP
より)
古代の本殿想像図 | 現在の出雲大社本殿 |