北本市宮内4-136 (令和6年12月21日)
東経139度32分33.76秒、北緯36度02分27.19秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬さがし隊Kさん」より】
この神社は、JR高崎線・北本駅の北北東1.4km程の辺り、宮内の街中に鎮座しております。
御祭神 素盞嗚尊
由緒
口碑によれば、当社は武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し、湧水池の辺りに創建したのが始まりで鎮座地の宮内の名も、当社の鎮座に由来するものであるという。勧請の時期は不詳であるが、永禄8年(1565)4月吉日に大嶋大炊助へ宛てた「河目資好証状写」(武州文書)に当地の名が見えることから、創建はそれ以前にさかのぼるものと考えられる。大嶋氏は元々伊豆大島に居を構えていたが、永正・大永年間(1504-28)に小田原北条氏に従い武蔵国に移住し、領主として当地の開発に当たった。このことから当社は大嶋氏によって勧請され、見沼のほとりに祀られた一宮氷川神社に倣い、湧水池の辺りに創建されたのであろう。また、当社は一宮・二宮に次ぐ「武蔵三宮」であるとの伝承があり、創建の古さをうかがわせる。
江戸前期、当村は上・下に分村した。『風土記稿』上宮内村・下宮内村の項には「氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その来由は詳に知れず 別当大乗院 当山修験 小松原滝本坊配下 末社 稲荷社 簸ノ王子社 弁天社」とあり、当社は分村後も下村ばかりでなく、上村からも鎮守として崇敬を受けたきことがうかがえる。
明治初年(1868)に上・下村は合併し、再び宮内村となった。大乗院は神仏分離後に廃寺となり、当社は明治6年(1873)に村社に列した。
当社は、人皇12代景行天皇の御子日本武尊東征の際、当地を武蔵、信濃平定の本営地と定めたことを記念し、大宮氷川の大神を勧請して建立されたものと説く。「宮内」の地名はここに始まるとも言われ、近郷の鎮守として神域は遠近に及んでいる。
かつては境内六千有余坪、一万坪余りの広大な社領を有し、古木また鬱蒼と茂り、荘厳を極めたようである。
「新編武蔵風土記稿」には本地は十一面観音、別当は当山派修験「小松原」瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃おおよその実情が知られる。
文政10年(1827)にはその由来の古さを認められ神祇管領長上家より「武蔵国三宮」の称号を贈られている。
その後当社は様々な変遷を経て、明治6年(1873)村社に列せられ、同40年(1907)には神社合祀の令により、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社、他いくつかの無格社、末社を合祀し現在にいたる。
境内由緒書き より。
参道入口
拝殿
拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和60年(1985)5月吉日建立)
本殿
境内社等