高麗神社

日高市新堀833 (平成20年11月4日)

東経139度19分32.79秒、北緯35度53分43.05秒に鎮座。

【神社情報・ナッキーさんより】
この神社は、高麗川(こまがわ)駅の西1.3km程の辺り、高麗川(こまがわ)の右岸に鎮座しております。古くは武蔵国高麗郡。朝鮮半島は高句麗国からの渡来人、高麗王若光を祀る神社であります。

高麗神社の主祭神はかつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗国からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は他に「こしき」「こにしき」などとも読む)です。
 若光の故国高句麗は、紀元前1世紀ころ朱蒙(しゅもう)によって建国されたといわれています。最盛期は5世紀の広開土王(こうかいどおう)長寿王(ちょうじゅおう)の100年で、中華人民共和国吉林省集安県にある広開土王碑からはそのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
 若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666)年10月高句麗から派遣された使節の中に「二位玄武若光」の名があります。『続日本紀』文武天皇大宝3年(703)年に当社の御祭神が「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「玄武若光」と高麗王若光は同一人物と思われます。
 若光は元正天皇霊亀二年(716)武蔵国内に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
 高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は59代目になります。
 高麗郡は明治29年入間郡に併合されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と崇められるようにもなりました。
 現在は年間約40万人の参拝があります。
高麗神社公式ホームページより。

 日高市に中心を置いたと考えられる高麗郡の始まりについて、続日本紀に「霊亀2年(716)5月、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を創建した」と記されています。この時、高麗郡の長となったと考えられているのが高麗神社の祭神で、高句麗からの渡来人であった高麗王若光でした。その後裔で、代々高麗神社の宮司を努める高麗氏系図には「若光が没すると郡民はその威徳を讃え、御殿の後山に霊廟を建て神霊を祀り高麗神社と称した」と当社の創建を伝えてます。 日高市内には8世紀前半以降の集落跡や女影廃寺、大寺廃寺、聖天院の前進と考えられている高岡廃寺などの古代寺院跡や須恵器の窯跡といった高麗郡建郡以降の遺跡が数多く存在し、古代高麗郡の栄華を窺い知る事が出来ます。
 高麗神社には12世紀(鎌倉時代)の「大般若経羅密多経」(国指定重要文化財)をはじめ、高麗神社本殿(県指定文化財)徳川将軍家社領寄進状(市指定文化財)といった有形文化財のほか、10月19日の例大祭に氏子によって奉納される獅子舞(市指定文化財)も伝えられています。また、高麗氏所蔵の文化財として17世紀の建築と言われる高麗家住宅(国指定重要文化財)高麗氏系図(市指定文化財)があります。
境内由緒書より。

地図を見ると、南西300m程の辺りに、聖天院と云う寺院があります。正式には高麗山勝楽寺。高麗王若光が祖国から持念仏として持ってきた、聖天歓喜仏を祭ったので聖天院ともいうようです。ここの境内に高麗王若光の墓とされる三層石塔があり、菩提寺として高麗川の左岸に建立された寺だそうです。明治以前は勿論一体で、神仏は習合していた筈ですから、高麗神社の名称は明治以後かと思われます。

ここより50km程南の相模湾に面する大磯に、高麗王若光は上陸したと云われる。江戸時代は高麗寺村と云われ、現在は、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)。そこに高来神社が鎮座しております。

参道入り口に立つ一の鳥居と社号標

「大宮大明神」と書かれています。
『高麗氏系図』によれば14代一豊の時、高麗大宮明神を称することを許され、高麗氏の当主は大宮司を冠するようになったと云う。その後、神仏習合の流れの中で、高麗寺となり、最後に大宮寺となったようです。

二の鳥居

こちらは、「高麗神社となっています。
宮司高麗澄雄は第五十九代。若光の子孫は高麗姓を名乗り代々、宮司を務めてきたようです。

2006年12月、澄雄氏は死去されました。享年79歳。
現在はその息子、文康氏が六十代宮司となっているようです。

中外日報に「高麗澄雄宮司、文康禰宜に聞く」という記事で紹介されています。

参道

参道途中の岡崎型狛犬

神門

高句麗神社と書かれた神額。書いたのは趙重應(チョ・ジュンウン、1860年9 月22日 - 1919年8 月25日)。今の韓国では、丁未七賊(ていびしちぞく)と言われ、又、李完用をはじめとする庚戌国賊(こうじゅつこくぞく)と云われ、高宗を退位させ、祖国を日本に売った大悪人ということになっています。戦前は日鮮同祖論等もあり、この神社も大いにもり立てられたことと思います。しかし、考え方は人それぞれだとしても、彼らも又、愛国者であったと思うのですが。

拝殿

本殿

手水舎