多久市郷土資料館 「多久の肥前狛犬展」

多久市多久町1975(平成23年11月2日)

東経130度5分26.07秒、北緯33度15分14.24秒に鎮座。

 今年の8月、佐賀で狛犬探しの旅をしましたが、その折り神社で肥前狛犬のことをお聞きした方から、『多久の郷土資料館で「肥前狛犬展」をしていますから、よろしかったら見に来てください。』とメールを頂きました。そこで、今回はこの狛犬展をメインに据えて、もう一度佐賀の神社巡りが実現の運びとなりました。
 館内では基本的には「写真撮影禁止」と書かれていましたが、あらかじめメールでお聞きした所「営利目的でなければ許可します。」とお返事を戴いてあったので、当日、許可を得て総ての狛犬を撮影させていただきました。その折り、数十年にわたり肥前狛犬を研究されてきた館長さんから、肥前狛犬に対する情熱と愛情のこもった貴重なお話を数時間にわたり伺って、大感激!。至福の一日でした。

多久市郷土資料館





(狛犬の解説は多久市歴史民俗資料館発行「多久の肥前狛犬」より引用させていただいています。又、展示ケース ガラス面の反射を軽減する目的で、偏光フィルターを使用した為、黄色の強い写真があります。)

1、両子神社  多久市東多久町納所

東経130度10分7.47秒、北緯33度15分9.27秒に鎮座。

 天徳元年(九五七)、秋田宮内大輔豊定が勅命によって納所に赴任する時に熊野大権現を勧請して創建した熊野権現社と、長徳元年(九九五)豊定の子、秋田納所次郎豊次とその子、豊忠が慈恵大師の弟子、法印叡弘に依頼し、近江坂本(滋賀県大津市)の日吉麿王権現を勧請して両子山山頂に創建した両子山王権現(のち参詣が困難なため現在地に移転)が明治四十三年(一九一〇)合併して現在の両子神社となった。戦国時代には龍造寺氏との結びつきが深く、龍造寺氏による絶大な支援を受けていた。ここには二対の肥前狛犬が奉納されている。
 石段を登った両側の狛犬は市内でも最大級の肥前狛犬である。丸々と豊な肉付きで太い前肢は量感があり、力強さを感じさせる。向かって右側が阿像、左側が吽像である。
 阿像は頭頂に丸い突起の角を持ち、たて髪は素毛で後頭部に段差をつけ、頭頂の角からたて髪末端まで鏑をつけ、丸みを持つ背も錆を延長して剣葉状の尾と接する。角の両側には横長の耳が並ぶ。目は弧線を楕円形に二重に刻んでいる。目の間には盛り上がった鼻筋が通り大きな鼻かぶらの鼻を持つ。鼻孔は四角に穿っている。口は少し舌を出した状態で開口を表している。口端には歯を鋸歯状に刻んでいる。胸前には山形で一本の沈線を刻んでいる。前肢は胸部から造り出した太い脚が直立し、足先には段をつけ一回り太く造り、一沈線で指を表現している。前肢間は浅彫りしている。前肢と後肢も浅彫りして連結させている。
 吽像も基本的には阿像とほぼ同じ造りであるが、阿像より一回り大きく造り、胸部の山形の沈線をもたない。目や目の下の沈線などが明瞭に残っている。頭頂の角の横に内耳が前を向いた耳を造り出しているが、片方を失っている。口の中に沈線で歯並を表し閉口を示している。前肢の表現も阿像とほぼ同じであるが、後肢は腿の部分を大きく強調し安定感を持っている。尾は四角の大きな突起が腿の間に造りだされている。十六世紀末から十七世紀初頭に製作されたものであろう。
狛犬の拡大写真はこちらで

2、両子山大権現   多久市東多久町納所

東経130度9分30.79秒、北緯33度15分18.11秒に鎮座。

 長徳元年(九九五)秋田宮内大輔豊定の子、秋田納所次郎豊次とその子、豊忠が慈恵大師の弟子、法印叡弘に依頼し、近江坂本(滋賀県大津市)の日吉山王権現を勧請して両子山雄岳山頂に両子山王権現を創建したが、山が険しく参詣に不便なことから現在地に移された。跡地には、文化四年(一八〇三)に建立された両子山大権現が祭祀されている。この石祠に一対の肥前狛犬が奉納されている。向かって右に阿像、左に吽像が向き合っている。阿吽像とも頭部に角は持たず、たて髪は耳の下および耳の後から梳き毛をまとめ、阿像の右側に四束、一左に五束、咋像は右に三束、左に四束に降り分け先端を渦巻状の巻き毛にしている。阿像の胸部も体毛二束を梳き毛にまとめ先端を巻き毛にしている。耳は外耳を外に向け垂れている。眉を盛り上げ、目の回りを彫り窪め丸い眼球を浮き彫りしている。眉から伸びた大きな鼻の鼻孔は丸く大きく穿孔している。阿像の口は大きく開き、上歯八本の奥にそれぞれ牙を持ち、十本の下歯も刻まれている。吽像は横一文字に太く彫られ口を附じている。四肢は台石の上に載り浅彫りで連結している。足先はくびれを付け指を刻んでいる。先端が尖った大きな尾の側面には渦巻文を彫っている。
 この種の肥前狛犬は佐賀市蓮池町の八坂神社の肥前狛犬に類似し、十七世紀後半の時期に製作されたものと推測される。
狛犬の拡大写真はこちらで

3、大畑 経典供養塔   多久市東多久町納所

 「大乗妙典一千部現世安穏後生善所」と彫られた板状自然石の経典供養塔の横には中央社石塔や十一面観世音石祠などが並んでいる。元々あった経典供養塔の横に河川の改修などの理由によりほかの神仏が集められたものと思われ、経典供養塔の前にある一体の狛犬もほかの場所からここに寄せられたと推測される。また、通常狛犬は神社や神に対し奉納されるもので、中世末以降、仏教を対象とした石造物に奉納されること一はまずない。また狛犬は一対がセットで奉納されるもので、その持点ですでに一体は失われたものと思われる。
 この狛犬の体形は正面から見るとやや縦長形であるが、側面からは三角形に頭部をつけたように見える。頭部は丸みをおび、角の突起もない、たて髪は素毛で首の後に僅かな段差をつける程度である。耳・目・鼻とも彫りが浅く、風化も進んでいるため細部の特徴は捉えにくい。口は横線を「へ」の字に刻み、閉じているように見え咋像であろう。牙らしいものも見える。前肢は細い割竹形で、前肢間および前肢と後肢の間は浅い彫りで連結している。背は丸みを持ち、尾は持たず、必要最小限の表現に留めている。十人世紀前期に製作されたものであろう。
狛犬の拡大写真はこちらで

4、大畑 天神社石祠   多久市東多久町納所

東経130度10分15.52秒、北緯33度15分5.18秒に鎮座。

 清心寺北側の広場に猿田彦塔三基とともに祭祀されている天神社石祠は十六世紀末から十七世紀初頭の様式で、祠内には菅原道真公の立像が祭祀されている。大谷と畑田が合併する前、大谷地区民によって祭祀されたもので、大谷地区では十二月二十五目早朝、地区民が天神社に集まり焚火でごはんを炊いてみんなで食べていた(岩崎伊八氏談)とのことであった。現在十二月の祭りは廃止され、八月二十五目に天神さん祭りが行われている。この石祠に一対の肥前狛犬が奉納されている。石祠の右側に咋像、左側に阿像を置いている。多久の肥前狛犬の中では小形の部類に属し、正面形は縦長の台形状である。全体的に風化が進み、角が取れて丸みをおびている。側面から見ると両像とも前肢の足先を引いているため、やや前かがみで地着部が摩耗し不安定である。
 阿像は頭頂に小さな一角の突起を持ち、右側の耳は欠損している。たて髪はほとんど確認できない。目も杏仁形のようだがはっきりしない。口はやや幅広い横線を彫り、咋像と比べて横線の幅が広いことから開口とみなした。前肢と後肢は浅彫りで連結している。背はやや直線的で背稜は施されず、下部に浅い浮き彫りの尾を持つ、吽像は阿像以上に角がとれ、顔は丸くなっている。頭頂部がやや膨らんでいるが、角とは断定できない。目・鼻・口もかすかに確認できる程度である。四肢は浅彫りで連結している。背は丸みを持ち、背稜はない。尾も確認できない。
 この肥前狛犬は、はじめから天神社石祠に奉納されたものと思われ、十六世紀末から十七世紀初頭の製作と推定している。
狛犬の拡大写真はこちらで

5、別府八幡神社    多久市東多久町別府5316

東経130度8分44.1秒、北緯33度16分52.21秒に鎮座。

 大永八年(一五二八)、龍造寺家兼が家臣の伊藤氏を宇佐神宮に詣でさせ、分霊を勧請し、別府荒平山に創建したが、道が険しく参詣に困難なことから、永禄十年(一五六七)、龍造寺長信が羽佐間四反田に遷座し、多久領の三所宗廟の一つとした。明治十四年(一八八一)に現在地に遷座された。神殿裏の塀際には町内各地から持ち寄られた三十に及ぶ神仏が祀られている。この中に二体の狛犬がある。平成五年頃に調査した時には気付かなかったが、平成十五年の調査の折、一体だけを確認していた。今回の調査でさらに一体を確認、平成十五年以降に持ち込まれたものであろう。
 二体とも風化が著しく、神社に持ち込まれた時期も異なることから一対であるかは不明であるが、像容や大きさから見ると一対の可能性もある。ここでは別個体として扱うこととする。
 (1)像は、正面から見ると長方形を呈し、側面は円を四分の一にした形に近い。頭頂には角はなく、たて髪は表現されていない。顔全体が浅い彫りで、鼻根は額から僅かに盛り上がって小鼻に伸びる、目は丸く小さい、眼球の回りは僅かに窪んでいる。頬は幾分盛り上がった程度である。口は横線を刻んでいる。背は丸みを持ち背稜はない。尾は幅広で僅かに盛り上がった棒状になっている。前肢は割竹状で下部はややくびれ足先を表している。前肢間は浅彫りで平板状となり、前肢と後肢の間は浅彫りで前肢と後肢を連結している。必要部分以外は省略し、表現に乏しい狛犬である。
 (2)像は前肢下部の一部を失って直立できない。(1)像よりさらに風化が著しく、浅い彫りであるため詳細な観察はできない。形状は(1)像より一回り小さいが、正面形・側面形とも(1)像に類似する。尾は持たず、やや細身である、十七世紀末から十八世紀初頭の時期に製作されたものであろう。
狛犬の拡大写真はこちらで
(2)(1)

6、熱田神社    多久市南多久町長尾平原

東経130度7分14.24秒、北緯33度14分57.83秒に鎮座。

 神社の創建については二説がある。一つは尾張名古屋城築城に出た杣を職とする横山村の住人が名古屋滞留の時、熱田社を崇信し、小祠を建てて祀り、横山に帰国する際、小祠を持ち帰り、社を創建したという説。もう一つは横山室老家多久茂順が慶長十九年(一六一四V大坂冬の陣に出陣する時、武運長久を祈願し熱田宮を創建したという説、両説とも江戸時代初期の創建と伝えている。
 熱田神社の神殿に二対の肥前狛犬が奉納されている。祭壇の上段に小形のものが、祭壇前の床面に大形のものが配置されている。祭壇上段の肥前狛犬は、多久市内で最も小さい肥前狛犬で、神殿に向かって右側に吽像、左側に阿像が配置されていたが、今回の調査で阿像と吽像を入れ替えた。阿吽像とも正面から見ると、縦に鑿跡を残す調整を行っている。阿像の正面形は縦に長い台形状で、頭頂部に角を持ち、両横に内耳が前を向き並ぶ。たて髪は素毛で、後頭部に段を持つ、顔は平坦で角張り、切れ長の目は深い一重線で表している。角から伸びた鼻は口の上で三角形に隆起し、丸い鼻孔を穿孔している。顔一杯に広がる口は三本の横沈線を彫っている。前肢間および前肢と後肢の間は浅彫りで連結している。外に開いた前肢の足先部分を太くして指を造っている。背は丸みを持ち、鎬で背骨を表し、丸い浮き彫りの尾を持つ。
 吽像は一回り小形であるほかは阿像とほぼ同じである。
狛犬の拡大写真はこちらで
 神殿の祭壇前に奉納されている肥前狛犬は、祭壇に向かって右側に阿像、左側に吽像が置かれている。この狛犬はこれまで多久に存在しなかったタイプの肥前狛犬である。幅広い梳き毛のたて髪と顎の下の体毛まで梳き毛にして整え、まさに獅子を思わせる像容である。また頭部や鼻などに渦巻文を多用し、より動的でボリュームを持っている。
 阿像は顔が畔像の方を向き、頭部に角はない。たて髪は梳き毛で、顎下の体毛を含めて十八束にまとめ、先端を渦巻状の巻き毛にして整えている。たて髪は体毛の先端を渦巻状の巻き毛にしている例は、市内では両子山頂に奉納されている肥前狛犬に見られる。県内では佐賀市蓮池町の八坂神社、同兵庫町の老松神社、唐津市厳木町の白山神社、同機前神社などの例がある。梳き毛や体毛を帯状に浮き彫りし、胸部から頭部まで廻らしている例は神埼郡吉野ヶ里町下藤の八竜神社、同箱川の八竜神社、唐津市厳木町浪瀬の八幡神社など見られる。
 眉は飛雲形の内側に渦巻を施している。耳は下に垂れた状態である。目は杏仁形の浮き彫りで鼻かぶらの太い鼻の鼻孔も渦巻形で表している。口は上向きに大きく開き「上歯の両側に犬歯(牙)と、十本の下歯を彫っている。胸部は大きく張り出し、大きな前肢は前に突出し、膝と足先に節を造り、足先には沈線で四本の指を刻んでいる。前肢問は浅彫りでつながる。後肢も足先に四本の指を造り出し、前肢と後肢も浅彫りで連結している。背は丸みを持ち、背稜は施されていない。尾は三枝に分かれ中央に先端が尖った圭頭形、右は細い渦巻、左は細い棒状になっている。吽像は阿像より一回り小さいが、基本的な造作は阿像と一致する。顔を阿像側に向け、お互い向き合っている。口は幅広い横線を彫り閉じている。梳き毛のたて髪は阿像より一束多い十九束を廻らしている。
 肢の表現も阿像とほとんど一致する。尾は先端が尖った棒状であるが、中央部が膨らみ、右側に鉤状の段を持つ。エリマキトカゲのようにたて髪の梳き毛を廻らせる肥前狛犬は一七世紀後半に製作された例が多く、この狛犬も同時期の製作と推測している。
狛犬の拡大写真はこちらで

7、桐野 妙覚寺 太神宮石祠    多久市南多久町下多久

東経130度7分45.23秒、北緯33度15分31.73秒に鎮座。

 桐野妙覚寺にある太神宮石祠は、萬治二己亥天(一六五九)七月十一目の銘があり、十九名の伊勢講衆によって造立されている。市内の伊勢講碑では牟田辺太神宮の明暦四年(一六五八)、田柄の万治二年(一六五九)二月に次いで三番目に古いものである。
 太神宮石祠に奉納されている肥前狛犬は、市内の肥前狛犬の中では小形の部類に属する。向かって右に阿像、左に吽像を配置している。阿吽像とも縦に長く、背中の丸みを除きほとんどが直線的である。
 阿像は頭頂には小さな突起があり一角の痕跡を留めている。たて髪は素毛であるが毛髪は表現されていない。顔は扁平で、目は窪んでいるが、楕円形に眼球の周りを彫り窪め、目を目立たせている。目の下には二本の沈線が彫られ髭か鍛と思われる、目の横からやや隆起した鼻筋が伸びて広がる。鼻孔は丸く浅く穿している。口は大きく開き上下の歯を刻み、大きく開いた分だけ顔が上向きとなっている。前肢と後肢の間は浅彫りで連結している。前肢問はやや深めに彫り、脚の中央部に膨らみを持たせ節を造り、足先を細めている。前肢間の上部の胸はやや膨らんでいる。後肢の足先の四本の指が前肢の足先と接している。背の左側に頭部中央から伸びた三本の長い沈線が斜めに彫られている。背稜は鎬を立て、わずかに膨らんだ尾を持つ。
 吽像は正面を見据え、頭頂部には小さな突起を持つ。目や鼻は阿像と同じで、頬の三条の沈線は髭であろう。前肢問および後肢は浅彫りで連結し、前肢を幾分後に引いているので顔が前に突き出ている。背は丸みを持ち、背稜は鎬を立てている。
 この肥前狛犬は太神宮石祠のために奉納されたもので、製作された時期も石祠が建立された万治二年頃と推測することができる。
狛犬の拡大写真はこちらで

8、田柄 天神宮石祠    多久市南多久町花祭

 田柄の天神石祠は、屋根石は反りがなく直線的で、中央に段を持ち、片扉の扉石の表を六区画に区分している。この石祠の形式は、肥前の石祠としては最も古い部類に属し、十六世紀末の造立と考えられ、市内の天神石祠としては最古級のものである、
 天神石祠に一対の肥前狛犬が奉納されている。向かって右側に阿像、左側に吽像が置かれている。素材となる石材が軟らかいため風化が進み、吽像についてはかなり損傷している。
 阿像の正面形は幅広の前肢部の長方形に幅広の半円形の頭部が載った形状で、側面は尾を上げ、地着面が少ない不安定さを感じる。頭頂に角を表す突起を持ち、頭部は頭頂から両側に半円形になっている。耳はほとんど目立たない・たて髪は素毛で後頭部に段をつけている。やや上向きの顔は平坦で、眉の下から目の回りを彫り窪め大きな丸い目を浮き彫りしている。三角形の鼻は正面を向いて穿孔している、角張り顔一杯に広がった大きな口は縦線で刻んだ歯並びを見せ開いている。顎下から前肢を造り出し、胸部は前肢間の平で幅広い浅彫りとなっている。前肢と後肢は浅彫りでつながり、蒲鉾状の前肢は足先をやや前に出している・背は丸みを持ち、背稜はない。臀部を浮かせているが、背面から見ると大きく膨らみ豊かである。尾は丸い突起で表している。
 吽像は背の左側から腹部にかけて剥落し、顔の一部も剥落と風化が進行している。頭頂部に突起の痕跡を残し、頭部は阿像と同様に半円状にかたどっている。眉骨が盛り上がり目も飛び出している。目は横に一線を刻み閉じている。四肢の表現は阿像とほぼ同じであるが、前肢は直立している。背は直線的に伸び、浮かした臀部の接点に突起の尾をつけている。
 この肥前狛犬の製作時期は、天神石祠が造立された十六世紀末であろう。
狛犬の拡大写真はこちらで

9、牟田辺 天神宮石祠    多久市南多久町下多久

 菅原道真公の丸彫り坐像を祀った石祠は、宝暦八戊寅天(一七五八)八月 三日の銘が彫られ、江戸時代後半の造立である。『丹邸邑誌』には「神躰菅公・夫人世子ノ三神也牟田辺四丁分二在リ、石祠六尺方ノ瓦屋アリテ覆フ拝殿二間二二間半草葺(中略)祭十一月二十五日、社務高野神主小佐井氏兼帯」と記され、『丹邸邑誌』が編集された弘化四年(一八四七)には石祠には瓦葺の覆屋があり、拝殿もあった。
 石祠の右に阿像、左に吽像が配置されている。阿吽像とも正面形は縦長であるが、側面や背面から見ると丸々と太り尻部がどっしりとして胴部が長く、豚を思わせる体形である。
 阿像は頭部に角を表す突起はなく、大きな耳が外側に垂れている。たて髪は素毛であるが目立たない。目や鼻もあまり目立たない。口は僅かに開き歯が見え、顎先が丸みをおびている。四肢は浅彫りで連結している。前肢は足先を前に出し、前肢間も浅彫りで幅が広い、後肢は膝を折り曲げている。背は丸みを持ち、稜は施されていない、尾は渦巻状の突起である。
 吽像の頭頂部は尖っているが、角には見えない。たて髪は素毛と思われる。顔の表情は特徴に乏しい。口は横線で刻み閉じている。顎がやや尖っている。前肢問および前肢と後肢の間は浅い彫りで連結し、側面から見ると四肢とも細い。前一肢は割竹形でやや内側に湾曲し、足先にくびれを入れ指先を表している。
 肥前狛犬特有の弧線や直線の組合せはほとんど失われている。石祠と同時期の奉納と思われ、肥前狛犬が姿を消す直前の十八世紀中頃の製作と推測される。(館内展示写真より転載)
狛犬の拡大写真はこちらで

肥前狛犬10〜19へ続く