白岳神社(下宮)

由布市挾間町谷2091 (平成28年9月23日)

東経131度29分49.13秒、北緯33度10分30.57秒に鎮座。

この神社は、JR久大本線・鬼瀬駅の南南東2km程の辺り、挾間町谷の街外れに鎮座しております。

御祭神 伊邪那美命、速玉男命・泉都事解男命・誉田分命・大山津見命・菅原道真神・佐藤九一郎命

沿略
江戸時代までは白岳権現又は権現社と称し、旧挾間町で最も早く明治六年旧郷社に列せられ、同九年には酒野地区の菅原大神佐藤九一郎命、岡地区の誉田分命、山田地区の大山津見命を合祀し、以来白岳神社と称され開運厄除けの神・安産の神又知恵授け諸願成就の神と由布市挾間町を始め遠近崇敬者も多く由布市の総守護神と称えられております。

由来
豊後大分郡植田庄白岳大権現御鎮座の由来を尋ねて見ますと、人皇第八十二代後鳥羽天皇の御代、建久の頃に伊予の国(愛媛県)の住人で河野四郎通信は紀伊の国(和歌山県)熊野権現を久しく信仰され、何か一つ不思議な良い事があればと真心こめてお祈りしていました。
ある日、暁に夢とも現ともなく枕上に神様がお立ちになっていわれるには「汝正直也その心に感じて勅す、豊後大分郡植田庄谷村に一つの霊山あり、常に声有りて風書するが如し、然りと錐も風は虚にして汝に示すに足らず、山の八分に岩穴あり往古より三振の霊剣有り、是則ち霊山の印なり、家臣河野監物之丞秀明、佐藤左近大夫信廣の二士を下し霊穴の前に一宇を建立し奉るべし」との霊夢に驚き建久二年秋八月の吉日を撰び、二士をお下しになりました。
二士は王の瀬(現大分市小佐井)に着船しそれより八里の行程を経て谷村の地に到着し東南の方を見ますと一つの霊山があります。風もないのに松が揺れています。「これはめでたいしるしだ」とよろこび二士は日暮れに山の麓の農家に泊まりました。
その後二士に神様のお告げがあり「朕、汝を待つこと己に久し、此の山上の岩洞に一宇を建立し、信廣は止まりて神職になるべし、秀明は帰国して通信を補佐すべし」と申されましたので二士は早朝に起きて東北に流るる小川の大智川の清水で心身を清め、木の根、岩かどを踏み越え、半日かかって山にのぼり、山の八分目につきますと霊穴の入口に光っているところがありました。そこを一尺余り掘って見ますと三振の宝剣が出てきました。そこで霊穴の前に一棟の社を建てて三振の宝剣を安置され、熊野三社の伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三神の分霊を勧請されてお祀りになりました。これが白岳神社の創建であります。
その後、神の御威力、不思議なカが世にもれなく伝わり、大友左近将監能直公は当社を深く御信仰になり、上宮田・土器田・紙田・祓田・米田・師迎田・三月田・御供田・三寸田・下宮田の神領等をご寄付されました。
また、能直公の御祈願によって守護寺として六ケ寺をお建てになり二つの禁令を出されました。
1、白岳の地で死亡した人々はその屍をこの地に埋めてはならない。
1、妊婦出産の時は白岳の地を離れて出産し三十五日の日数を過ぎた後帰宅すること。
尚、直野左近兵衛吉時は御供えのご飯を炊き、水氣玄番之丞正光はこれを神に御供えし、御鍵を持つ役をすること。

下宮由緒
或る夜、栃木雅楽斉秀直は夢の中に神のおしめしがあって、「宝殿の東一丁(約百メートル)余りの山の中くぼみの所に石の鳥居が埋まっている。これを鳥居の尾に立つべし、昔通信二士がこの地より遥拝した所なり」とのお告げにて鳥居並びに遥拝所を建立して、六月の晦のお祭には此の所に行幸させれておごそかな神事を執り行い、その外春夏秋冬のお祭等怠りなく行われました。
また万籠村柳野は昔、お宮を造りになる時にお仕事をされは所で、今古宮ともいいます。
境内由緒書き より。

神社入口

手水舎

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和55年(1980)3月吉日建立)

拝殿内部

本殿覆屋


学びの石