城原(きばる)八幡社

竹田市米納1048 (平成28年9月23日)

東経131度20分23.95秒、北緯32度59分11.94秒に鎮座。

この神社は、JR豊肥本線・豊後竹田駅の西北西5km程の辺り、米納の街中に鎮座しております。

御祭神 景行天皇・神功皇后・応神天皇・比売大神・他二神

由緒
天皇の二年現在の松原行宮跡に宮を建てゝ祀ったのがこの神社の起源である。後天安2年(858)に八幡大神御降臨の霊示あり神域を広め社祠をとゝのえ日野氏をして祀らしめた。

変遷
建長年間(1249〜1255)国主大友能直は豊後七の宮の一として大いに修復し末寺末社の数多く、堂宇も70の多きに達したが天正14年(1586)兵火にかゝり難を産山にさけた。慶長元年(1596)藩主中川秀成は産山より現竹田八幡山に迎えたが、霊験により現在の地を神域とし旧地に松を植えて宮の外苑とした。因に今日の松原は当時の植樹によるもので、苗は播州舞子より持ち帰りしものと伝えられている。・・・・・
境内由緒書き より。

沿革
『日本書紀』によれば景行天皇が景行天皇12年(伝82年)に熊襲征討の折り、碩田国(現在の大分県)に巡行し土蜘蛛を討った際に城原に行宮を置いたとされる。社伝では、当社は応神天皇2年(391年)に行宮跡(城原八幡社上松原社地)に祠を設けたことに始まるとされる。天安元年(857年)には、八幡神が顕現したため、国司豊後守石川宗継が殿宇を造営してて八幡神を配祀し、城原八幡社と称するようになったと伝えられる。また、源為朝が荒廃した当社を再興し、その際に社殿を東面させたとも言われ、通常の神社建築では社殿が南面するのに対して、当社は現在の社殿も東面している。建久7年(1196年)に大友能直が豊後国に入国すると、豊後八幡七社のひとつとして大友氏の庇護を受けた。
天正14年(1586年)、島津軍が豊後国に侵攻した際(豊薩合戦)に焼失した。その際、八幡神は宮司によって産山村(熊本県産山村)隠川へ奉安されたが、文禄3年(1594年)に中川秀成が岡藩に移封されて竹田に入ると、当社を勝山に遷座して岡の総鎮守となし、勝山は八幡山と呼ばれるようになった。さらに慶長元年(1596年)には、霊験により城原の現在地に遷座するとともに、城原の旧地を松原となした。
ウィキペディア より

神社入口

入口左右の浪花狛犬。拡大写真はこちら。
(文久元年(1861)辛酉夏6月建立)

神橋

神門

豊磐牖命(とよいはまどのみこと) 櫛磐牖命(くしいはまどのみこと)

拝殿

拝殿内部

幣殿

本殿


末社

末社を護る狛犬。拡大写真はこちら。
(文久2年(1862)壬戌2月建立)
大歳社 武内社
御嶽社 米長社

興玉社


秋季大祭の模様

城原夜神楽