県名の由来は、古来より国府が置かれていた大分郡(おおきたのこほり)に由来し、「おおいた」という読みは、「おおきた」が転訛したものと考えられています。大分郡の名の由来については、『豊後国風土記』によると、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされています。けれど大分平野は広大とは言えないため、実際には、狭くて入りくんだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとするのが最近の定説となっています。
大分は横尾遺跡から出土した角柱状の材木から、縄文時代早期から人々が居住していたことが推測されます。
中世の鎌倉時代から室町時代にかけては大友氏が豊後国の守護となり、戦国時代のキリシタン大名大友宗麟の代に最盛期を迎え、九州の大半を支配するとともに、清やポルトガルなどとの交易を盛んに行い南蛮文化が花開きました。
江戸時代には大分県にあたる地域(旧豊前国の一部と豊後国)には、中津、杵築、日出、府内(大分)、臼杵、佐伯、岡(竹田)、森(玖珠)の八藩が分立し、さらに、肥後、延岡、島原藩の飛び領が点在、日田には九州の幕府領を管轄する西国筋郡代の代官所が置かれました。このため、他県のように大きな都市は形成されず、代わりに各地に特色ある文化が生まれました。
近代になり、明治4年(1871) 旧豊後国内に置県されていた佐伯県・大分県・岡県・日田県等の各県を併合し、大分県が成立。明治9年(1876)宇佐、下毛両郡が福岡県より大分県に編入され、現在の県域が確定しました。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
宇佐市南宇佐 宇佐神宮・上宮南楼門と回廊