松栄神社

大分市荷揚町4-20(平成20年7月24日)

東経131度36分47.5秒、北緯33度14分15.72秒に鎮座。

 この神社は府内城跡北西側に鎮座しています。境内も社殿も綺麗に整備され、府内城とは復元された西の丸と渡り廊下・廊下橋で繋がっています。

 御祭神:松平近正公、松平一生公
 由緒:慶長末期上州水沼村に松平家の祭神・近正八幡宮として創始されたのがこの社の起源で、享保14年(1729)豊後府内藩主・近儔公直参の宮として城内山里の邸この地に祭祀され、寛政11年(1799)神託により近正の神祠を牧村・松栄山(現在の大分市牧,護国神社社地)に遷宮し、近正大明神としました。
 さらに4年後近儔公は氏神である松平一生公の霊を合わせて祀り、栖克(すみよし)大明神と改称しました。
 明治になり、鎮座する松栄山にちなんで社号を松栄神社と改め、さらに明治18年に社地が堀川町(現在の都町北部)に移されましたが、明治33年(1900)にかつて祠のあった現在地に遷宮し、今に至っています。
 1945年の敗戦後は衰微しましたが、1968年有志によって再建されました。

神社入口
拝殿前 昭和15年生まれの狛犬
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(昭和15年(1940)1月建立)
拝殿
本殿
社殿全景
境内社:稲荷神社 神楽殿

府内城跡
府内城は、慶長4年(1599)に石田三成の妹婿福原直高が築いた平城の跡で、荷揚城とも呼ばれます。当時は城の北側が海に面しており、舟から積荷を落としたので「荷落」と呼ばれていましたが、縁起をかついで「荷揚」としたといいます。 慶長7年(1602)、竹中重利が入り、4層の天守閣や楼閣など現在の外観に近い城の全容を完成し、荷揚城を府内城と改めました。また美称として、「白雉城」とも呼ばれました。寛保3年(1743)の大火により、天守などを焼失、のちに城楼を築きましたが、旧城とは比較にならない小規模なものになりました。明治になって県庁が置かれましたが、明治10年の西南の役のとき増田宗太郎によって破壊され、また昭和20年には戦災にあい、昭和41年に隈櫓などが復元されるなどの歴史を経てきました。現在は宗門櫓、人質櫓、天守台、城壁、石垣など貴重な遺構(県史跡)が残る市民公園となっています。

廊下橋
平成8年(1997)に復元された西の丸と山里丸をつなぐ渡り廊下です。