丸山八幡社

大分市大字今市2568 (平成28年9月23日)

東経131度27分12.26秒、北緯33度06分39.22秒に鎮座。

この神社は、JR久大本線・鬼瀬駅の南南西9km程の辺り、石畳で有名な今市宿の南外れに鎮座しております。

御祭神 応神天皇・景行天皇・神宮皇后・仲哀天皇・菅原道真公・大歳命・大己貴命・大山祇命・高龗命・稲倉魂命

由緒
慶長15年(1610年)に熊本藩藩主の加藤清正が、参勤交代の長旅の安全を祈願して菅原道真公を勧請した天満社を創立した事に始まるとされる。清正は慶長6年に豊後国内の海部、大分、直入3郡から2万石を領有し、参勤道として熊本から鶴崎港へ至る肥後街道を整備し、直入郡の久住宿と大分郡の野津原宿を本陣とし、その中継地点にあたる今市宿にも脇本陣を設けて利用したが、今市自体は岡藩領なので他領における神社創立には疑問が持たれ、或いは以前から鎮座していた天満社に参勤道中の安全祈念の意を込めて修復や寄進等を行い、それが清正創祀という伝承となったやも知れない。
万治3年(1660年)に岡藩主中川久清が京から熊沢蕃山を招き、久清自ら三佐に上陸した蕃山を出迎えて10月2日に今市の庄屋佐藤三吾兵衛善次の屋敷に1泊しているが、その際に三吾兵衛が久清に八幡社の建立を願い出、その許可を得て寛文3年(1663年)に米納の城原八幡社の分霊を勧請して天満社境内に八幡社を創祀、爾来中川氏が八幡社へ参勤交代の都度道中の安全と領民の繁栄を祈念した為に天満社は影を潜めたといい、江戸時代を通じて「丸山八幡」と称され、貞享5年(1688年)に本社拝殿と舞殿、鳥居の修復が、元禄14年(1701年)に神輿殿と鐘堂の修復が岡藩により行われた。また、享保5年(1720年)には今市の豪商である小倉屋松田庄右衛門尉長次によって楼門が寄進された。
明治2年(1869年)に藩命により天満社を合祀して「丸山神社」と改称、同5年村社に列した。同13年、字日向師と字歳の神の2所の大歳命を、字城山の大己貴命を、上白家(うわじろか)と屋敷の上の2所の菅原道真公を、字山神の3所の大山祇命を、平連石(ひららいし)と尾崎と押の尾の大山祇命を、下白家(したじろか)と柳井水の高龗命を、字丸山と字下次郎(げじろう)の稲倉魂命を合祀した。
ウィキペディア より。

参道入口

神額

日光東照宮の門を模した楼門。教育委員会の説明はこちら。

随身様

拝殿

彫刻

本殿


石祠

御神木