八幡鶴市神社

中津市相原3218 (平成28年9月22日)

東経131度11分31.16秒、北緯33度33分42.65秒に鎮座。

この神社は、中津市役所の南4km程の辺り、山国川の東側すぐに鎮座しております。

八幡鶴市神社
1.創建 推古天皇(593〜629)の御代
1.祭神 応神天皇・速秋津彦神・速秋津姫神・布留野鶴女姫命・布留野市太郎命
1.由緒 推古天皇の御代、水門の神速秋津彦神・速秋津姫神二神を、貞元2年(977)円融天皇の御代に宇佐八幡宮より八幡大神を勧請し、崇徳天皇の御代保延元年(1135)人柱となった鶴・市太郎母子の霊を合祀して八幡鶴市神社となる。
人柱となった鶴・市太郎母子
保延元年の頃、宇佐神宮の神領であった沖代平野は領主湯屋弾正基信始め7人の領主(湯屋の瑞泉寺には7基の墓碑が建立され、毎年供養が営まれている)が支配していたが、沖代平野一千町歩八千石の耕作のため築いていた井堰が洪水により毎年決壊していた。そこで対策を協議の結果、人柱を立てることになり、7人の領主は船に乗り、袴を水中に投じ一番先に沈んだ袴の持主が人柱になることとなり、結果湯屋弾正の袴が先に沈み、人柱になることが決まる。直ちに弾正は一室に籠り断食斎戒している中、家臣布留野源兵衛重定の娘鶴が「祖先よりの恩に報いるにはこの時」と身代りを申し出る。その決意や固く一歩も譲らぬ態度には遂に湯屋弾正も受け入れる。母子は7日7夜沐浴断食の後、白無垢に身を清めて輿に乗り井堰へ、人柱の犠牲の上に大井手堰は領民の祈りを込めて強固に完成され、以来洪水にも決壊することなく、母子の霊は八幡神社に合祀され八幡鶴市神社となった。それから872年に亘り歴史と伝統を受け継ぎ、今日では毎年8月第4土・日曜日に大祭が挙行されている。・・・・・・
境内由緒書き より

参道入口

参道

神門前の出雲型狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和14年(1939)6月1日建立)

神門

参道

社殿