青筵(せいえん)神社

杵築市杵築 (平成20年7月26日)

東経131度37分40.04秒、北緯33度24分45.22秒に鎮座。

 この神社は八坂川を渡る杵築大橋から小高い丘の上に城が見え、その城跡に造られた城山公園の中に鎮座しています。

 御祭神:杵築藩主・松平親秀公・松平重休公、日出藩主・木下俊長公、府内商人・橋本五郎左衛門、市内の英霊911柱
 由緒:御祭神は鳥藺の恩人といわれる四神霊で、創建は昭和11年です。さらに昭和42年には、市内の英霊911柱を合祀しました。
 七島藺を加工した青筵(豊後青畳表・安くて丈夫な庶民用の畳表)は江戸時代の豊後藩内農家の経営をうるおし、しだいに産額も増加して大分県の特産品となったので、感恩報謝の意を表すため、神社創建の話が起こり、地元の関係業者が中心となり、全県下から集められた浄財により創建されたそうです。

社号標 神社入口
参道の様子 境内入口
拝殿前、昭和11年生まれの狛犬
鬚のある動物顔の狛犬で、上半身が発達しています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和11年(1936)10月建立)
拝殿
本殿
神社前から見える杵築城模擬天守と八坂川の河口風景

 杵築城は応永元年(1394)、周辺地域を治めていた大友氏の一族である木村頼直によって居城として築かれたことから始まります。その後、文禄2年(1593)に本家・大友義統が豊臣秀吉の怒りに触れて改易になると、17代目当主・統直は悲運を嘆いて切腹したため、344年間に渡って杵築の地を治めた木村氏は滅亡しました。
 その後、前田玄以・杉原長房・松井興長・小笠原忠知と何度も城主が入れ替わり、正保2年(1645)豊後高田から能見松平英親が3万7000石の大名として入城すると、そのまま能見松平氏12代の居城として明治維新を迎えました。
 天守閣は慶長3年(1608)に落雷で焼失して以降、再建されることは無く、また、実際に政務を行う居館は杉原氏時代に台地の北側の山麓(現在の杵築中学校・杵築神社一帯)に移され、松平氏時代に台地上の建造物は破却されました。そのため、近世以降天守閣周辺には殆ど建物が無かったことになりますが、現在は本丸跡に三層の模擬天守が建てられ資料館として利用されています。