愛宕神社

速見郡日出町大神932 (平成20年7月23日)

東経131度34分3.89秒、北緯33度23分0.86秒に鎮座。

 この神社は日出暘谷高校西の小高い丘の上、大きな森の中に鎮座しています。境内は良く整備され、社殿も立派な神社でした。

 御祭神:伊弉冉尊、軻遇津知命
 例祭日:元旦祭・1月1日、春期大祭・1月24日、節分祭・2月3日、秋期大祭・8月24日、祭日・毎月4・14日、七五三・11月、除夜祭・12月31日
 境内社:保食神、生目神
 由緒:開基は宇佐神宮を創立した大神比義といわれていますが、その後、奈良時代の末に荒廃した社を見て行基菩薩が中興したと伝えられ、豊後の国で最初に建立された愛宕神社として広く人々の崇敬を受けています。はじめ「辻の堂愛宕大権現」と呼ばれていましたが、中世この社に「愛宕勝軍地蔵尊」を祀り、武将達に八幡神とともに厚く信仰されてきました。
 1600年の石垣原の合戦の直前には、木付城(杵築)を攻めた大友宗麟の家来・吉弘嘉衛統幸が夜襲をかけるため、一時この地まで退きましたが、その時この地蔵尊をないがしろにしたため落城させることに失敗し、石垣の戦いで戦死してしまいました。又、願い事を1つだけかなえてくれると言う大分県天瀬町の「高塚地蔵」は、この社から分祀したと伝えられています。
 江戸時代には日出城藩主・木下延俊公も、この社が城の鬼門にあることから、日出城の守護神として崇敬し、社領の寄進を行っています。
 また、宝永2年(1705)には、失明者が社に祈願し、その霊験により開眼したということから、3代藩主・木下俊長公は幕府に報告、「瞽者放明碑」(こしゃほうめいひ=失明者が開眼したいわれの碑〉を境内に建立し、当時江戸でも愛宕神社の霊験は評判になったといわれています。
 明治時代になり神仏分離令により、現社名に改称しました。
 詳しくは「辻の堂愛宕神社の由来」をご覧下さい。

神社入口遠景
一の鳥居 参道途中の二の鳥居
寛永11年(1634)木下延俊公が
寄進した鳥居です。
境内入口
社殿全景
拝殿正面
本殿
境内社:保食神、生目神 地蔵堂