吉弘神社

別府市石垣西6-6-19(平成20年7月26日)

東経131度29分39.15秒、北緯33度17分43.72秒に鎮座。

 この神社は石垣小学校の南西約100mに鎮座しています。道路からはこんもりとした杜が見え、良く整備された綺麗な境内には大きな社殿が建立されています。

 慶長5年(1600)9月、豊後の関ヶ原ともいわれる石垣原合戦において、西軍石田三成に見方して挙兵した大友義統の家臣・吉弘統幸を祀る神社で、統幸は東軍・徳川家康方につくべきだと主君を再三諌めましたが聞き入れられず、黒田如水の東軍とやむなく戦い、「明日は誰が 草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」と辞世の歌を残して戦場の露と消えました。その統幸を近くの臨済宗・太平山宝泉寺の住職が村人と相談したうえで、石碑をたてて手厚く葬り、その印に一株の松を墓の側に植え、位牌を寺に安置して、その菩提を弔っていました。
 大正11年(1922)、地域の人々の手により、墓所の前に一間社流造の本殿と入母屋造裳階付の拝殿が建立され、吉弘神社と名付けられました。

 御祭神となった吉弘 統幸(よしひろ むねゆき、永禄7年(1564) 〜 慶長5年9月13日(1600年10月19日))とは
 大友氏の家臣で、吉弘鎮信の子。屋山城城主でした。
 1578年、父が耳川の戦いで敗死後、家督を継ぎ、以後、衰退する大友家の勢力挽回を目指し忠誠を尽くしました。 1592年、文禄の役に参陣しましたが、翌年に大友氏が改易された為、 一時、黒田孝高に招かれ黒田家に仕官しましたが、 後に従兄弟である立花宗茂のもとへと身を寄せ、2000石で仕えました。
 1600年、関ケ原の戦いが起こると旧主・大友義統に会い、東軍加担を進言しましたが、 義統は聞き入れず西軍に加担。この為、大友家の旧恩に酬いる為、立花家を暇請いし、 大友家の御家再興を狙う義統の一軍に加わります。
 そして、豊後奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、 黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突。(石垣原の戦い) 得意の槍を振るって奮戦し、一時は大友勢を上回り優位に戦を進めましたが、黒田如水の本軍がいつ到着するかわからないという戦況であった為に、 全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となると、 旧主・義統に別れを告げ、僅か30余騎で黒田勢に突撃、 黒田家臣・井上之房に討ち取られました。
 統幸の戦死を以って、大友勢は事実上壊滅し、義統は黒田氏に降伏しました。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

「吉弘神社の由来」はこちらで

境内入口 社号標
拝殿
拝殿向拝彫刻・龍
拝殿前、大正14年生まれの狛犬
上向きで潰れ顔、頬はふくれ歯が目立ち、首のない、顎髭や尾の流れが滑らかな個性的な狛犬です。吽には角が付いています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石匠・大分 田口勘蔵 大正14年(1925)5月建立)
本殿
境内社:稲荷神社入口
稲荷神社拝殿 稲荷神社本殿
境内には大小さまざまの巨石が点在しており、
その中でもこの石は最大級の石で、注連縄が巻かれています。