中山神社

津山市一宮695 (平成26年7月21日)

東経133度59分49.80秒、北緯35度05分49.58秒に鎮座。

この神社は、津山市役所の北4km程の辺り、津山の市街地が終わり山並みが迫る境目に鎮座しております。

御祭神 鏡作神

由緒
当社は文武天皇慶雲4年(707)此の地に社殿を創建して鏡作神を奉斎したと伝えられている。貞観年間官社に列せられ、延喜式に於ては美作国唯一の名神大社であると共に此の国の一宮でもある。
「今昔物語」に猿神の説話があり、後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」には関西に於ける大社として、安芸の厳島社備中の吉備津宮などと肩を並べている。
鎌倉時代に元冦など国家非常の時に際し、勅命により特に全国7ケ国の一宮に国家安穏を祈願せしめられているが、当社も其の中に選ばれて祈願を厳修したことが伝えられている。
弘安8年に一遍上人回国の途当社に参詣し念仏踊を行ったが「一遍聖絵」(国宝第八巻)に作州一宮図があって、其の節参詣の図が描かれている。建武中興破れて天正に至る約4百年間は,美作国中戦乱の巷と化し、その為に社寺の祭祀も殆んど絶えようとする有様であったが、当社は永正8年(1511)と天文2年(1533)の両度に祝融の厄に遭い、本殿以下山上山下の摂末社120社と共に宝物・什器・旧記・古文書等悉く炎上焼失した。
永禄2年(1559)に至り、出雲城主尼子晴久戦捷報賽の為め社殿を復興した。世に中山造と称せられる入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪の宏壮雄大な御本殿であって、大正3年国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財の指定を受けている。
慶長8年森忠政美作全州を領して入封するに至り、国内漸く平定し歴代の藩主の崇敬も厚く社領の寄進や修築の資の奉献など絶えることなく、又「一宮さま」と親しまれ、朝野の信仰を集め、中世より近世にかけては門前市も大いに繁昌した。
明治4年国幣中社に列格。御祭神金山彦命と定められた。これにより明治年間再度に亘り御祭神名を「鏡作神」に改められる様願出でたるも聴許せられず終戦を迎え、昭和21年宗教法人中山神社設立届出に当り御祭神名を主神鏡作神、相殿に天糠戸神、石凝姥神配祀と総て明治以前の社家伝承や旧記類に明記せられている御神名に旧した。
宗教法人中山神社となった後も、御本殿以下諸建造物等境内の森に至るまで昔のままの姿にて防災施設も完備し、美作国の一宮と広く尊信されて現在に至っている。
岡山県神社庁公式サイト より。

社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも。
延喜式頭注』には大己貴命、『作陽誌』には吉備武彦命、『大日本史』や『神祇志料』には吉備津彦命と記されている。他に金山彦命とする説もある。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、当社の祭神は猿神であるとされている。
ウィキペディアより

文化財の説明等はこちら。

参道入口と一の鳥居

神額

参道

この地では珍しい愛媛県型狛犬。拡大写真はこちら。
(明治41年(1908)5月吉辰建立)
参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(明治43年(1910)10月建立)

参道の神橋

神門

社殿

正面

拝殿

本殿


惣神殿

猿神社参道入口

猿神社
御先神社

国司社

鉾立石

御神木のケヤキ

御神木のムクノキ