石高神社

岡山市中区円山853(平成21年8月22日)

東経133度58分25.72秒、北緯34度39分9.47秒に鎮座。

 この神社は富山小学校の北西約200mに鎮座しています。石垣が組まれ、鳥居が建っている入口から境内入口の随神門まで直登の石段参道が続きます。境内は白壁の塀に囲まれ、雅で涼やかな感じがしており、石畳の参道奥に拝殿、その奥玉垣内に豪華な本殿が建立されています。社殿の周囲には様々な境内社も祀られ、閑静で手入れの行き届いた綺麗な神社でした。

 御祭神:大己貴命、須勢理姫命、配祀:仲哀天皇、神功皇后、応仁天皇
 祭礼日:歳旦祭・1月1日、どんど焼き・1月15日、厄除祭・2月1日(または1月中の休祭日)、春期例大祭・5月中旬の日曜日、輪くぐり(夏祭り・7月31日、秋期例大祭・10月3〜5日、七五三祭・11月の休祭日
 境内社:木野山神社、霊社、天満宮、金磨宮、稲荷神社、荒神社、金祐稲荷、竪巌宮
 由緒:当社は備前国古社百二十八社のうちの一社であります。古くは操山山系の高倉山に鎮座され、百間川遺跡や幡多廃寺跡、あるいは「春の湊」と謡われた謡曲が物語るように古くから開けた地域の産土神(うぶすなのかみ)として信仰を集めてまいりました。また、近世の新田開発に伴って現在の地に遷座されましてからも広く清水・藤原・赤田・高屋・関・沢田・湊・円山・山崎・福泊地区の産土神として、私どもを日々お守りくださっています。
(境内「随神門修復費用ご寄進のお願い」より)

 当社は創立年月不詳でありますが、備前国総社神名帳(863年頃)に石高神社とあり、同山本氏本には、正三位石高明神と載り、備前国古社128社のうちの一社であります。社伝によりますと、往古は今の宮山から北手にあります高倉山の嶺上に大己貴命を祀る石高神社があり、また西の方の字岩坪というところに須勢理姫命を祀る八幡宮がありましたが、今から320年ほど昔の天和年間に、この両社を現在の宮山に移して合祀し、岩坪八幡宮と称して尊拝していました。明治4年に旧号に復し、幡多郷の総鎮守産土神と定められて現在に至っています。旧社格は村社で、末社には民俗学上有名な金磨宮(かなまろさまと呼ばれている。)があります。
(「石高神社公式サイト」より)

 創立年月は不詳であるが、現存する神名帳で一番古い備前国総社神名帳綿抜本または総社本(863年頃)に石高神社と載っており、同山本本または八日市(938~947年頃)には正三位石高明神とある。しかし、平安時代の諸制度を編纂した延喜式(927)の神名帳には載っていないが、備前の式内、式外古社128社のうちの1社である。
 社伝によると、往時は今の宮山から北手にある高倉山の頂上に大己貴命を祀る石高神社があり、今の嶽字岩坪に須勢理姫命を祀る八幡宮があった。この両社を天和3年(1683)頃に現在の地に合祀し、岩坪八幡宮と称して尊敬していた。このため、江戸時代の書物には、八幡宮として載っている。現在の地に移座した理由として二、三の説があるが、当時山崎新田開発(1664)はすでに行われており、倉田新田開発(1679)の直後であることから新田方面を守護する役目があったようである。事実、倉田新田は元禄8年までは石高神社および東の吉備津岡辛木神社の氏子であった。
 その後明治4年に旧号に復し、幡多郷の総鎮守産土神と定められ、大正3年には村社になった。幡多郷というのは、享保 6年編纂の備陽記によると、清水・赤田・藤原・高屋・関・沢田・山崎・円山・湊の各村をさしており、当社は古代から栄えていた操山山系の山北や山表の人々の生活や湊方面を航行する船の安全を護って来た。
 末社には、稲荷神社や性神の金磨宮などがある。
(「岡山県神社庁公式サイト」より)

社頭
入口鳥居奥にいる文政13年生まれの浪速狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
(文政13年(1830)12月吉日建立)
石段参道の様子
随神門
境内の様子
拝殿
本殿
境内社:木野山神社 境内社:霊社
境内社:天満宮 境内社:金磨宮
境内社:稲荷神社
境内社:荒神社 境内社:金祐稲荷
境内社:竪巌宮