石門別(いわとわけ)神社

岡山市北区大供表町3-30 (平成25年11月4日)

東経133度55分04.72秒、北緯34度38分56.77秒に鎮座。

この神社は、宇野みなと線・大元駅の北東600m程の辺り、岡山の町中に鎮座しております。

御祭神 天石門別命

由緒
創祀年代、鎮座の事情不詳。『神社明細帳』は勧請年紀不詳としながら、御野郡伊福郷の大安寺山に祀られていたのを延喜六年(906)正月に現在の場所へ遷座したとの申し傅へのあることを記している。『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社ははやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。例えば、元文四年(1739)に完成した『備陽國誌』には「戸隠宮 大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う當社ならんかと云へり』と見える。しかし、その後寛政年間に岡山藩士大澤惟貞によって編纂された『吉備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治三年の『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隠宮』と記されていることなどを考えると、江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的なものとはならなかった様子がうかがわれる。『特選神社名牒』もいくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽國誌に神明帳に御野郡石門神社とあるは當社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司の記録に備前國御野郡大供村鎮座戸隠宮者奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略記』が記してをり(昭和十三年『岡山市史』第五巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政六年)はこの時廃寺となった寺についての寶永四年(1707)の調査資料をあげている。それには「住持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜清左衛門、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺理斎大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。社領について『備前國式内書上録』(明治初年)は寛保年間の社傳(現在その行方は不明)に記された古老の申し傳へとして「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代、天正文禄の比は社領纔二拾五石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確認できない。
江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。旧村社。
境内パンフレット より

神社入口

案内。かつて戸隠宮と呼ばれていたが、江戸中期以後国学の高まりとともに式内社「石門別神社」とみなすようになったようです。

神額

神門前のうつむき狛犬。拡大写真はこちら。
(文政10年(1827)丁亥9月吉日建立)

神門

境内

拝殿

神額

本殿


稲荷神社

金刀比羅宮