船川八幡宮

新見市新見1781 (平成26年7月22日)

東経133度28分35.50秒、北緯34度58分51.05秒に鎮座。

この神社は、新見市役所の北北東1km程の辺り、新見市の東側山地の麓に鎮座しております。

御祭神 譽田別尊

由緒
当社は天永年間に、京都山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)に総代を派遣し、新見村今市(現在の新見宮地町)へ勧請し、惣社として創建されたと伝承されている。
応永17年(1410)11月7日(室町時代)社殿が炎上し、各書記、古文書、刀剣類、重宝など全て焼失した。
古文書によれば、応永21年(1414)3月、平信濃入道が、社殿を再建した。
伝承によると、永禄年間(室町時代後期)新見村鳶ヶ巣城主、徳光兵庫頭が、氏神として崇敬して居たが、神夢の啓示により、備中松山(高梁市)へ舟路を開鑿し、舟揖の便を得たのを感謝して、舩川の山号を奉り、舩川八幡宮と号し、濁酒献供の定めを起して、田地2反8畝歩を神領としたのが、濁酒醸造の始まりとされている。以来、歴代の領主から代々寄進米を受け、この伝統行事は継承されてきた。
元禄10年(1697)10月、1万8千石の初代新見藩主となった関備前守長治侯は、正徳5年(1715)9月13日神社を今市から明月山に奉遷し、藩の守護神と崇め、領内23村の総鎮守とした。秋季大祭の御神幸大名行列(新見市無形民俗文化財)と共に濁酒醸造の行事を確立した。特に例大祭には、藩主が参座して領民の安穏、五穀豊穣を祈念したといわれている。
御神幸の時は、藩主入国の行列儀式にのっとり、藩士を差し向け厳粛に神輿の前衛として奉仕させたのが御神幸武器行列の始まりで、現在も往時の仕来りを、忠実に継承している。
明治4年(1871)9月国家管理に移行され、「郷社舩川八幡神社」となり、同40年(1907)1月27日神饌幣帛料供進神社に指定された。
昭和13年(1938)4月15日、新見町大火災によって社殿などことごとく焼失した。
昭和21年(1946)1月10日、神祗院から認旨があり、「県社舩川八幡神社」となったが、同21年(1946)2月2日神道指令により国家管理を離れ、宗教法人神社本庁の包括神社となった。
昭和22年(1947)4月、約10年を費やし社殿等全てを再建立した。
平成3年(1991)2月15日、「船川八幡宮」と改称した。
岡山県神社庁公式サイト より。

参道入口

参道入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(文久元年(1861)辛酉10月建立)

青銅の鳥居。享保年間(1716〜1735)三代政富の頃奉献。

神額。八の金文字は八幡神社の八を示すもので、八幡神社の使鳥である鳩を左右相対に現している。

神門

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

拝殿内部

本殿塀内の狛犬

本殿


鷺神社・天満神社

武内神社
末社