高天彦(たかまひこ)神社

御所市北窪158(平成23年1月7日)

東経135度41分59.16秒、北緯34度24分52.56秒に鎮座。

 この神社は30号線・西北窪の高天原の看板を右にみて、急な坂道を1.1km程登っていくと、T字路に「右・高天寺、高天原へ、左・高天彦神社へ」の看板があるので左の道を進むと、150mで神社の駐車場に着きます。
 駐車場脇の参道入口から境内までは約60m、鬱蒼と茂った杉の大木が参道の両側に聳え立っており、車道に出ると目の前に境内入口の一の鳥居が立っています。境内奥に狛犬が見え、石垣上の二の鳥居の奥に瓦葺三間社流造りの社殿が建立されています。社殿左右には沢山の境内社が祀られ、又社殿左奥には「蜘蛛塚」と称する、まつろわぬ(従わない)人々・土蜘蛛を埋めた跡で、無残に殺された彼らの霊を祀ったものと云われている塚が、注連縄を掛けられた姿でひっそりと祀られていました。
 お正月に降った雪が未だ境内に残っていた所為もあるのでしょうが、厳かな雰囲気の境内に入った途端に、空気が張り詰めてピンと体の中を通り過ぎたような衝撃を受けました。清々しく神寂びた雰囲気のこの地に、古代の人々が神話の世界の「天孫降臨」の舞台を重ね合わせ、高天原を連想したのも多いに頷けました。

 御祭神:高皇産霊尊(別名 高天彦神)
 祭礼日:秋大祭(座講祭)・10月1日、秋祭・10月5日
 境内社:護国神社、三十八神社、管原神社、春日神社、八幡神社、稲荷神社、市杵島姫神社、御霊神社
 由緒:  天照大神の子の天忍穂耳尊に本社の御祭神の娘、栲幡千々姫命が嫁ぎ、御子の瓊々杵尊が高天原から降臨される。その神話に言う高天原がこの台地である。
 御祭神を祖神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。
 延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官幣に預かってきた神社である。
(境内案内板より)

 本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
 神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生まれに なった瓊々杵尊が高天原からこの国土に降臨されます。その天孫降臨にあたっ て、国つ神の征伐に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神 がお世話申し上げたのであります。
 日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高天原」も、実は御祭神の 鎮まるこの高天の台地であります。
 御本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえていますが、社殿ができる以前は 、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。古杉のそびえる参道は北窪・ 西窪の集落に通じていますが、そこがかつての葛城族の住地であります。彼らは背後 にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
 葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。そ して葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝 位につかれたというのも、この柏原の地であります。
 日本書記に、「腋上のホホマの丘に登りまして、国のかたちをめぐらしお せりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。うちゆふのマサキクニといえども、な おアキツのとなめせる如くあるか。これによりて始めてアキツシマのナあり。」とある 腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬(ほんま)の地名 を残しています。国号のアキツシマもこの地に最初の王朝が築かれたことに由来しま す。
 葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びますが、竹内宿祢によって復興 し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。 これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元年(859)に神位従 二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りに は官幣にあずかってきた古社であります。
(『平成祭データ』より)

参道入口
駐車場脇の参道入口から境内までは約60m、鬱蒼と茂った杉の大木が参道の両側に聳え立っています。
杉並木の参道の様子
社頭
境内入口 一の明神鳥居
境内の様子
境内奥にいる嘉永7年生まれの狛犬
とても造りの良い浪速狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(嘉永7年(1854)甲寅3月建立)
上の境内入口に立つ二の明神鳥居
明治10年に建造された瓦葺三間社流造りの社殿
社殿階段脇に置かれた陶器製の飛び狛さん
境内社:護国神社 境内社:三十八神社
境内社:管原神社 境内社:春日神社
境内社:八幡神社 境内社:稲荷神社
境内社:市杵島姫神社 境内社:御霊神社
社殿左の「蜘蛛塚」
蜘蛛塚は土蜘蛛を埋めた跡で、無残に殺された彼らの霊を祀ったものと云われているそうです。土蜘蛛とは、古代、大和朝廷側から異族視されていた集団で、容易に大和朝廷の支配下に入らなかった人たち、王化に浴せぬいわゆる化外(けがい)の民を蔑称した言葉です。
この神社背後に聳える美しい円錐状の山が、ご神体山の白雲嶽(標高694m)です。