諏訪神社

北佐久郡軽井沢町追分(平成18年9月3日)

 この神社はしなの鉄道・信濃追分駅の西北西約1.5km、信濃追分宿の西端近くに鎮座しています。入口から境内までは150m近くあり、追分宿が隆盛を来たしていた時代には、さぞこの神社も崇敬者や旅人で賑わっていたと想像される、立派な社殿や碑などが残っています。今でも立派な鎮守の杜が残され、落ち着いた静かな境内には涼しい風が心地よく吹き、暫しのんびりとした時間を過ごしました。

 創建は分かりませんでしたが、文化財として嘉応元年(1269)〜延宝3年(1675)に奉納された大般若経六百巻奥書が残っているので、少なくとも鎌倉時代には勧請されていたものと思われます。御祭神は建御名方命、誉田別命、倉稻魂命などです。

 この神社の鎮座する追分宿は、浅間三宿(追分・沓掛・軽井沢)のひとつで、中山道と北国街道の分岐点にあり、昔から交通の要衝の地でした。江戸時代には中山道の大改修が行われ、参勤交代が実施される頃からは人馬の往来が激しくなり、元禄頃の記録には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒、その他5軒を数えるほどの大宿場となりました。慶長9年(1604)、全国の街道には一里塚が造られましたが、日本橋から40番目にあたる追分の一里塚は、中山道69次の内でも、道路をはさんで左右に塚があるという貴重なものが残っています。
 又、追分は文学的にも有名で、「風立ちぬ」の堀辰雄や、室生犀星、中村慎一郎、三好達治、野村英夫、津村信夫、今井慶松、河上徹太郎、嘉門安雄、深田久弥などが、旧本陣である油屋旅館を中心にして集まり、文学の花が咲いた所でもあります。
 7月下旬に行われる「信濃追分馬子唄道中」の日は、多くの観光客で賑わうそうですが、これは、追分に発祥し全国各地に伝えられたと言う「追分節・馬子唄」を、多くの方に親しんでもらいたいという考えで始まったもので、江戸時代の大名や旅人、馬に乗った白無垢の花嫁などに扮した人々が、追分宿を練り歩き、往時の追分宿の賑わいを再現しているのだそうです。

神社入口
参道の様子 境内入口
昭和18年という戦時たけなわの時期に奉納された狛犬
(石匠・浅間石材有限会社  昭和18年10月吉祥日建立)
拝殿
後ろに五社殿が並んでいます。
中央、本殿裏側から
一番左、稲荷神社 左から二番目の社殿
右から二番目の社殿 一番右、八幡大明神
境内に建つ一茶句碑
有明や 浅間の霧が 膳をはふ
面白い灯篭の建つ末社
数々の霊神碑
末社二社 末社