御頭御社宮司(おとうみしゃぐち)総社

茅野市宮川高部 (平成22年8月28日)

東経138度7分51.96秒、北緯35度59分31.55秒に鎮座。

この神社は、中央自動車道・諏訪ICの南1km程の辺り、諏訪市に近い宮川の山沿いに鎮座しております。諏訪地方に多い御社宮司社の本宮と云って良いのでしょうか。諏訪大社神官ナンバー2、大祝(おおほうり)の継ぐ神長官、守矢氏の敷地内にあり、みさく神祭祀を今に伝えているようです。

みさく神は、諏訪社の原始信仰として、古来専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献「年内神事次弟旧記」・「諏訪御符礼之古書」には「前宮二十の御左口(みさぐじ)神勧請・御左口神配申紙は神長の役なり。」とある。このみさく神は、御頭(おんとう)みさく神ともよばれ、諏訪地方みさく神祭祀の中枢として重んぜられてきている。
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室町時代初期に編まれました『諏方大明神画詞』によれば、大和朝廷による日本統一以前、出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入した時、この地に以前から暮していた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣どって迎えうったそうです。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負け、建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝といい生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長官という筆頭神官の位に就いたという事です。

市指定文化財 神長守矢家祈祷殿
守矢家の祖先は諏訪大明神建御名方命入諏以前からの土着の神といわれ、古代以降上社大祝(おおほうり)を補佐し、上社五官の筆頭として代々祈祷と政務事務を掌握してきた家柄である。
現在同邸内には祈祷殿のほか、旧祈祷殿遺跡・御頭役郷庄の精進屋遺跡・御頭みさく神・勅使殿等がある。
神長官家の祈祷は一子相伝で、神長以外他の何人もたずさわるを許されず、神長が祈祷殿に籠って祈祷調伏した記録が『満実書留』(守矢文書)に数多くみえており、また、守矢頼真が後年、長坂筑後守に与えた書状には「殊更壬刀(みずのえとら)九月二十四日に御願書御越候 神長一人にて終夜御祈誓申候處其儘御祈祷相叶候」と記されてあり、これにより、神長守矢頼真が天文十一年(1542)九月二十四日、武田晴信(信玄)のために祈祷殿に籠って戦勝祈願を行い、高遠頼継の率いる高遠勢の調伏があったことを裏付けている。
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神社遠景

正面

社殿

敗れた、洩矢神を祀る社殿がいささか小ぶりなのは、致し方ないであろう。ナンバー2の地位に甘んじた守矢氏だが、祭祀に関する実権を握っていたのはこの守矢氏であったようです。名は捨てざるを得なかったが、実を取ったというべきか。何やら戦後の日本に似ていなくもないような。名誉を捨て、繁栄を取ったのか。

末社

守矢家屋敷門。神社はこの奥にあります。祈祷殿は門を潜って左手になります。