若宮八幡宮

京都市下京区若宮通花屋町上ル若宮町 (平成24年9月28日)

東経135度45分32.07秒、北緯34度59分25.13秒に鎮座。

この神社は、京都駅の北800m程の辺り、若宮町の街中に鎮座しております。

由緒
当宮は天喜5年(1058)源ョ義が後冷泉天皇の勅を奉じて創建され六条八幡とも左女井八幡とも言われました。
平安時代は五条大路までが市街地で六条の地は堀川館をはじめ当町にョ義・義家の館、その東には後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で、「拾芥抄(1540年代)」には「八幡若宮義家宅」の書入れがあり「古事談」にも「六条若宮はかつて源ョ義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。またョ義の誕生水と称される井戸の伝承地があると記されています。(義家誕生1041年)
「五妻鏡(1190年代)」によると文治3年(1187)正月15日六条以南、西洞院以東の壱町の左女御地を社地として六条若宮に寄進されたとあります。
そもそも左女牛(さめごい)とは、現在の醒ヶ井通りのことではなく、平安京条坊図によれば北から五条大路(現松原通)樋口小路(現万寿寺通)六条坊門小路(現五条通)揚梅小路、六条小路、左女牛小路(現花屋町通)七条坊門小路(現正面通)北小路、七条大路とあり寄進された壱町とは正しく若宮八幡宮を中心とした一区画であります。
以来、源ョ朝からも格別の崇敬を得、文治3年(1187)6月18日には放生会を始行すべき沙汰あり、同年8月15日に鎌倉八幡宮と共に放生会が行なわれたのが今日の祭事の始まりであります。
さらに室町時代に足利将軍家の崇敬を得て、ますます栄え応永17年(1410)8月、四代将軍義持がお参りした時の様子を伝える「義持社参絵巻」には、本殿のほか公文所、楼門、三重塔などが見え壮麗な殿舎を彷彿させられるのですが、惜しくも応仁の乱(1470)で焼失、その後秀吉の京都改造(短冊形町割・寺院街形成・御土居築造)に際し、天正12(1584)当時の御旅所のあった東山へ移され天正16年(1588)には方広寺の北へさらに慶長10年(1605)現在の五条坂へ移って今日に至っているのですが、東遷の後も、町民の信仰あつく創建以来の宮を守り、まつりごとを斉行し、年々盛んになってきているのであります。
境内由緒書き より。

神社入口

神額

境内

社殿


若宮稲荷神社