新宮神社

南国市十市緑が丘1-1701(平成23年4月1日)

東経133度37分22.52秒、北緯33度31分42.48秒に鎮座。

 この神社は土佐湾の北約1km、248号線に参道入口があります。
 明治12年生まれの狛犬が護る参道入口には一の鳥居が建立され、真北に石段を上がると片側フェンス沿いの平坦な参道が70m程北東に続き、明るく開けた場所に出ると「死と再生の森」と銘打った鎮守の杜があり、大空に聳え立つご神木が目に入ります。一画には土俵とお旅所が設えられ、大樹の下には子育神社が祀られています。
 子育神社から50m程で境内に入りますが、入口には二の鳥居が建立され、左に手水舎、正面に千鳥破風付き入母屋造りの拝殿、弊殿、彫刻の施された大きな本殿が建立されています。社殿左右には神母神社等の境内社が祀られています。
 広大な社地に豊かな森が形成された素晴らしい景観が見られ、又、博識の神主さんのお話がとても楽しく、時間の経つのを忘れてしまう神社でした。

 御祭神:天照皇大神、伊邪那岐神、健速須佐之男神
 祭礼日:歳旦祭・1月1日、お焚上げ祭・1月3日、七草・若菜節句・1月7日、どんど焼き・1月15日、節分祭・2月1日、建国記念の日・2月11日、祈年祭(春祭)・2月20日、夏越の祓い・6月30日、うらぼん会 (中元祭)・7月15日、十市の夏祭り・宵宮祭7月20日、夏祭・7月22日、星祭り・8月末の土・日曜日、御立祭・旧9月末日、秋大祭(神事11月の第一日曜日)・11月2日オナバレ・流鏑馬・綱曳、七五三詣り・11月15日前後、新嘗祭(秋祭)・11月24日、御迎祭・旧10月末日、一陽来復・12月21日(冬至)、除夜祭(大晦日)・12月31日
 境内社:神母神社(祭神・保食神)、天満宮(祭神・菅原道真公)、子育神社(祭神・木花開耶姫神)、豊受神社(祭神・豊受姫神)
 由緒:新宮神社は、昔から「十市の総鎮守」として郷人とともにあります。
 創建・勧進はと聞かれますが、仏教のように新しく入ってきたものではなく、神社は日本民族固有の永い生活慣習の中で出来上がってきたものです。縦穴住居の遺構には神棚が存在しています。郷人の祖先が生活を始めたころからでしよう。文献上でわかるのは、日本の建国間もない頃の書物に「十市」が登場しています。日本の神社関係の基本規範が文書で制定されたのが奈良時代の西暦670年頃のことだといわれます。これが「延喜式」といわれるのは、延喜5年(905)に編纂刊行されたからです。今から約1100年くらい昔のことです。神職の衣装や祭祀・作法は、変わることなく、現在でも同じに執り行われております。
 この中に「十市に坐ます神」が神饌の係りという最も祭祀に重要な部分をつかさどった事が記されています。「十市」と書いて「とおち」と読む地名は日本に二ヶ所あります。これからもうかがえるように、十市という地名は大変大事な食を司る神さまが坐す地だったのではないでしょうか。但し、当時は神社名が違っていたかもしれません。鎮座地ももっと西の方だったのでしょう。字名に残る「奈路(なら)」辺りだったでしょうか。元々日本の祭祀(神社)にはいわゆる「おやしろ」はなく清浄な地に岩とか、太い柱を立てたり、周囲に玉砂利などしいたのですから。十市の謎は、女躰神社名の「躰」の中に隠されていると密かに語り継がれてきました。が、その封印の奥に、閉ざされたままの美しい十市皇女の伝承が!。十市皇女は父が大海人皇子、母が額田王。夫は大友皇子。壬申乱で夫に斬殺されたという。男と女の二つの神社、そこに秘められた古代ロマンを求めて大学生が研究テーマにと、ときおり訪れます。
 古祭祀の様式が新宮神社には残されています。秋大祭当日の「お頭屋」の庭に、神輿の据え場所が作られます。斎竹の中の地表には潮ごりをして早朝に採集された玉石が敷かれ、潮汲みされてきた桶からこの玉石に潮水がかけられます。これが三日間は続けられます。当日一樽は本殿に供えられる。
 ご祭神は遠く波涛を越えてやってきたのでしょうか!。社殿周囲の山土を切り取る、拡張工事中に、地表に敷き詰められた玉石が出てきました。古代に玉石が山上に広く敷かれ、斎場が作られていた遺構かも。いや、航空測量写真に前方後円墳が2つ繋がっていることがはっきりと写っています。十市皇女の眠る地でしょうか。白鳳の大地震で十市の南部が海底に沈んだと言われています。新宮神社は祟りの神さまと言われ、畏れ故に高い信仰を集めています。500年を超えるヤマモモの雄花の巨樹など絶滅種の樹木が残されています。研究者はこの木々が優れた花粉を遠くまで送り出してくれる素晴らしいところだと言う。子授け・安産・保育の神さまとして四国以遠からも多数の参拝者が訪れたのも、こんな大自然の営みを遠く離れた地の人々が感知できる、人間の不思議な能力には驚きです。生命のよみがえりの杜・次ぎの生命を育む神秘の杜を、次の世代へ大切に守って行かなければなりません。
 「土佐日記」の作者・紀貫之は、土佐を去るとき「大湊」で正月を過ごしました。豊富な食べ物の話題を詳細に記しているのも、航海安全を祈った神饌の神さまへの思い出だったのでしょうか。帰れない娘へのなごり、地名に残る皇女伝承が白波のように胸をあらったのでは……。七〇近い老人の脳裏に、和歌の入門書「土佐日記」の構想が芽生えていたのか、和歌の問答は大湊から始まります。十市皇女の母・額田王が歌人だったからでしょうか。現在も石土(いわつち)池周辺には当時の岬の守り神の祠が多数残っています。棟札に残された最も古いものは、「文亀二年壬戌(1502)十一月十五日再興新宮三所権現社大檀那源重隆 大工新右衛門」とあったといわれます。源重隆とは十市栗山城主・細川重隆(初代細川武蔵野守頼之から一〇代目)です。記されていた年の前年は全国的に干ばつ、飢饉に苦しんでいた頃です。ご神徳に報恩の再建だったのでしょう。下克上、戦国時代の始まりでした。和歌山県の新宮と繋がっています。熊野と同じく補陀落東門の伝承も伝わっています。
 細川侯が十市に来たのは、長宗我部元親が統一を始める少し前です。田村の郷にいた細川氏の何らかの血を引く方だったのでしょう。この少し前から熊野信仰のメッカになっていたようです。元親公と細川家との関係で熊野系神社がさらに勧進されたようです。元親の重鎮となり四国制覇をなしますが、関ヶ原で破れ土佐は山内公の支配となります。新藩主から当神社への藩米や神田寄進など厚遇ぶりも記録されています。周囲にいくつかの神宮寺がありました。峰寺もその一つです。
 現社殿は、文久二壬戌年十月(1862)に着工翌年完成。原形よりも大きく厳しく極彩色で壮麗に出来上がっております。彩色は昭和30年代までは残っていました。旧社殿は漆塗りだったようです。明治維新の6年前のことです。すでにこの時点で神仏分離がかなり進んでいたのでしょう。全国的な神仏分離の嵐は明治維新後ですから、そうとう早くから敬神尊皇思潮の波が十市では高かったことが窺えます。新しい産業の発展が原因でしょう。竜馬の脱藩もこの頃です。
 桧皮葺きで、鬼瓦には三つ葉樫の山内家紋が描かれていました。この家紋も大正十四年の銅板屋根化で外され、保存されていましたが、持ち去られてしまいました。新宮神社の神紋は、長宗我部時代の五三の桐と熊野系を示す三本足の赤い八咫烏(やたからす)です。ここにも土佐の人々が旧国主への思慕の強さを示しているようです。明治維新の原動力はこんなところにも。
平成十一年二月十二日 新宮神社森國宮司記 
(参拝の栞より)

248号線脇にある参道入口
参道入口に立つ一の台輪鳥居
参道入口に居る明治12年生まれの狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治12年(1879)6月吉日建立)
石段参道
石段参道を上がると平坦な参道が70m程北東に付けられています。
自動車での参道と一緒になった地点に聳えるご神木
参道途中にあるお旅所と土俵
境内社:子育神社を見下ろすように聳えるご神木
境内社:子育神社
「死と再生の森」案内と日清従軍人祈念碑
社頭
境内入口に立つ根巻鳥居
参道と境内の様子
手水舎
拝殿
拝殿に掛かる額
弊殿と本殿
境内社:天満宮 境内社:神母神社(おいげさん)
境内に咲く桜