秦神社

高知市長浜門前857-1(平成23年4月1日)

東経133度32分46.3秒、北緯33度29分49.52秒に鎮座。

 この神社は四国霊場三十三番札所雪蹊寺の北東隣に鎮座しています。
 狛犬が護る入口は雪蹊寺山門のすぐ東にあり、鳥居を潜ると参道はすぐに左に曲がり、もう一度右に曲がると、真っ直ぐ北に約60mで境内に行き着きます。参道は緋の絨毯のように舗装され、境内右に社務所、中央に拝殿、本殿、拝殿左に神饌殿が配されています。又背後の山が嘗ては長浜城址であったという案内板も立っています。
 土佐の方々の長宗我部氏への思いが伝わってくる、素敵な神社でした。

 御祭神:主祭神:長宗我部少将元親霊、 付祭神:秦家代々霊、家臣忠死の徒霊
 祭礼日:例祭・11月13日、夏祭・7月20日
 境内社:西宮神社、竈戸神社(大年御祖神)
 由緒:長宗我部氏の菩提寺であった雪蹊寺が、廃仏毀釈の嵐の中で、明治三年廃寺となったため、元親の弟の親房の子孫と称する島弥九郎与助たちは、土地の有志たちとともに再三高知藩庁に働きかけ秦神社の創建を請願し、同年十二月許可が下った。
 そこで、雪蹊寺に安置されていた元親公木像(県指定文化財)、肖像画(国指定の重要文化財)、戸次川戦没者の霊板、山内忠義奉納の絵馬などを貰い受け、明治四年、因縁ある長浜城の城山山麓に創建した。
 主祭神である元親公は前の土佐の太守で、慶長四年五月十九日、山城の伏見館で薨去され、遺言により遺灰を土佐長浜の天甫寺山に埋葬し、高福山慶雲寺、即ち現在の雪蹊寺を菩提寺と定められた。
 大阪夏の陣で長宗我部氏は滅亡し、土佐は山内家の治めるところとなったが、山内家は雪蹊寺に寺領一〇〇石を下し香典とし、その後、寛政九年五月には二〇〇年法要を、また嘉永元年五月には二五〇年法要を行った。
 明治の御代となり、秦神社創建後は明治三十二年五月に秦神社に於いて三〇〇年忌祭を行い、昭和三年十一月十日、昭和天皇が御即位の大典をあげられた当日、元親公に対し正三位が追贈され、さらに昭和十七年八月十五日、県社に昇格した。戦後はこのような社格もなくなり、昭和二十八年、宗教法人秦神社となり今日に至る。
 平成十一年五月二十三日、元親公没後四〇〇年の節目に、公が初陣に臨み戦勝を祈願した若宮八幡宮の境内地、鎮守の森公園に初陣銅像が建立され、更に同年十二月四日、銅像前で神仏合同による四〇〇年遠忌法要が盛大に執り行われた。
 平成十九年四月十四日、シート防水工法による拝幣殿の御屋根修復工事が完工。平成二十一年十一月二十二日には、神葬家の御霊を預かる若宮霊廟の秦分祠、並びに秦神社社務所が完成した。
 社宝・絹本著色長宗我部元親画像(国重要文化財)高知県歴史民俗資料館に委託保管
    ・元親座像(高知県指定文化財)高知県歴史民俗資料館に委託保管
    ・長宗我部地検帳写本(長浜地区)
    ・戸次川戦没者霊板
    ・山内忠義公奉納絵馬
(「若宮八幡宮公式サイト」より)

社頭
入口にいる明治12年生まれの狛犬
土佐型に江戸流れが入り交じっている、端正な顔つきの狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治12年(1879)11月吉日建立)
入口に立つ明神鳥居
鳥居に掛かる額 社号標
参道の様子
鳥居を潜ると参道はすぐに左に曲がり、もう一度右に曲がると、真っ直ぐ北に約60mで境内に行き着きます。
参道途中右側に聳えるご神木
境内入口
境内の様子
拝殿
拝殿内の様子と本殿正面
本殿
神饌殿 境内社:神母神、四社神
境内社:荒神、二社神 境内社:鎮八幡神