春野神社

高知市春野町森山(平成23年3月31日)

東経133度27分40秒、北緯33度29分28.37秒に鎮座。

 この神社は新川に架かる涼月橋北詰に鎮座しています。極小さな神社ですが、「旧春野町」の名前の由来は、この社に始まるとされる歴史のある神社で、土佐の偉人・野中兼山命を御祭神としています。

 野中兼山 元和元年(1615年)〜寛文3年12月20日(1664年1月18日)
 江戸時代初期の武士で、土佐藩家老。諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、後主計、また伯耆と改め、最後にまた伝右衛門に復した、幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。
 南学の儒者。政治家。また灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励等、活動は多岐にわたる。
 元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。
 祖父野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父良明は5000石を領していた。藩主一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していた が、一豊死去後に約束が反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死去後、兼山は母とともに土佐に帰った。
 13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。
 寛永13年(1636年)養父の直継が病死し、野中家を継いで奉行になった。藩主忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。
 まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。
築港も推し進め藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。
 藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
一方で過酷な年貢の取り立て、華美贅沢の禁止などで領民に不満は貯まっていき、藩から逃亡する領民も出てくる状態へと進んでいく。 また、郷士の取り立てなどは上士の反発を貯めていく。
 明暦2年(1656年)藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工等が家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。野中兼山は失脚し、宿毛に幽閉される。その年に兼山は亡くなる。
 報復は過酷で男系が絶えるまで、一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後まで待たなければならなかった。
 兼山の功績は土木事業に多く、特に山田堰、柏島港、手結港等の優れた技術は高く評価されている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

社頭
境内入口に立つ木製鳥居 鳥居に掛かる額
境内の様子
社殿 境内社
ご神木
新川の落とし
涼月橋