朝峯神社

高知市介良乙1927(平成23年4月1日)

東経133度36分47.97秒、北緯33度33分18.73秒に鎮座。

 この神社は土佐大津駅の南約2km、介良川左岸に鎮座しています。
 介良川に架かる神橋から、神社の入口と、後方に小さいながらも綺麗な円錐形をした小富士山が見えます。参道入口には注連縄の架かった注連柱が立ち、安政6年生まれの土佐型狛犬が護る神社の入口には一の鳥居。石段を上がると二の鳥居の奥に拝殿が建立されています。通常ですとこの後本殿に向かうのですが、この社では拝殿後方の本殿へと続く石段参道入口から奥は、女人禁制となっており、男の方も神主さんにお断りしないと登拝出来ません。私達の参拝時には御祈祷を受けている方がいらっしゃったので夫も神主さんに声を掛けられず、又の日再訪時にお願いして参拝させて戴こうと云うことになりました。因みに本殿後方には女性器を象徴する「甕の巌屋」があり、この割れ目からは常に水が滴り、その水は涸れることなく、雨でも増えることもない「産井池」があるそうです。
 又、境内には陽根石が置かれています。

 御祭神:木之花咲耶姫命、爾爾伎之命、大山祇命
 祭礼日:夏祭・7月10日、秋祭・10月第三日曜日
 由緒:当社は秀麗なる介良富士の麓に鎮座し主神佐久耶姫は絶世の美女神不二の山にちなんでいる。霊峰富士山(静岡県)の本宮、浅間神社より年代はわからねど、勧請された神社で御祭神も同一なり、全国に約千数百社ある。三代実録や延喜式名帳に所載の神社で土佐の国、延喜式内二十一社の一つなり。近古、長曽我部氏も尊信厚く神領田五十余ケ所を寄進される。また藩主山内家祈願所八社の一つにして貞観八年六月に、神位従五位上と歴史に歴然たり。
 万葉集古儀の鹿持雅澄も歌を奉納す。
「まいのぼるこの朝峯の皇神に手向ける麻と散る桜かも」
 また南路志に書いた、武藤平道も歌を奉納す。
「のどかなる御世のしるしと、廣前にはなのしふゆふ掛けてくるかも」
 安産、酒造、農耕、養蚕、山火鎮護等、天孫爾爾伎之命と結婚し一夜を供にした木之花咲耶姫は妊娠し臨月を迎えたことを爾爾伎之命に告げると、「一夜で身重になるとは考えられない、きっと国津神の子であろう」と言われ戸窓の無い無戸室殿を建て産屋を造り壁土で隙間を塗り潰して、出産の時に産屋に火をつけて燃え盛る火のさ中で三子を無事産んだ。火照命(海幸彦)火須勢理命、火遠理命(山幸彦)なり
 そのことを父親大山祇神が聞き喜び天甜酒を造りお祝いする。佐久耶姫も酒造りが好きで、父が酒解神である故、佐久耶姫は酒解子神といふ。
(境内「由緒概略」より)

 ・朝峯神社祭礼
 朝峯神社は高知市介良、岩屋、白水集落の産土[うぶすな]神社で、延喜式内社のひとつ。
 秋の大祭は10月20日で、神幸の列にしめ飾りをした酒瓶がゆく。これを担く二人の白丁が、オンビキゾーと囃しながらゆくが、これは御神酒ぞーの意とされている。神幸は少年たちの棒打ちもみられるが、注目すべきものに行子[ぎょうじ]と頂女郎[いたじょう]がある。行子は母親に抱かれた幼児または幼童である。神輿が発達するまでは、この行子に神霊をのり移らせ神馬にのせて神幸していた風の名残りである。神主が大祓[おおはらい]という祝詞を唱えているうちに昏睡状態になり、それが神霊ののり移ったことであった。この行子の世話役が頂女郎である。頂女郎は月のもののなくなった女性がなる。神幸が旅所に着くと、頂女郎は白粉の厚化粧をする。帰社すると直ぐに化粧を洗い落とす。化粧が神がかりの手段であった古代信仰を秘めたものである。また旅所で行子たちに振舞われる田芋、枝豆、吸物膳も古式として注目される。1912(大正元)年から旅所は長崎鎮座の王子神社となったが、古くは頭屋[とうや]とよぶ特定の家から神幸が出発し、それに伴う厳格な祭式作法が行われていた。
(「文化財情報 無形民俗文化財 朝峯神社祭礼 - 高知市公式ホームページ」より)

介良川に掛かる神橋から見る神社遠景と小富士山
参道に立つ注連縄の架かった注連柱
社頭
神社入り口にいる安政6年生まれの土佐型狛犬
阿吽共に前片足肘を腿に置き、空中に片手を挙げています。どことなく楽しそうな雰囲気の狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(安政6年(1859)未9月吉日建立)
参道と一の鳥居
社号標「式内朝峯神社」 惟神之碑
石段の参道
境内に立つ二の鳥居
境内の様子
拝殿
祈願が行われている拝殿内の様子
拝殿後方の本殿へと続く石段参道入口
此より奥は女人禁制となっており、男の方も神主さんにお断りしないと登拝出来ません。
石段参道の様子
本殿
拝殿脇の旧拝殿
境内に置かれた陽根石