野中神社(お婉堂)

香美市土佐山田町中組 (平成23年3月28日)

東経133度40分24.3秒、北緯33度36分28.26秒に鎮座。

 この神社は土讃線・山田西町駅の北北西約1kmに鎮座しています。山田町中組集落の西端に鎮座地があり、北側には一面の菜の花畑、竹林や雑木林、遙か彼方の山々の緑を背景に菜の花の黄色が一段と際だって見えました。
 参道入口の鳥居を潜ると、参道脇や社地内に沢山の歌碑が置かれているのが、とても印象に残っています。妻入りの拝殿奥に本殿が建立されているようです。
 この社を創建した婉さんは江戸時代中期の女の人です。この時代に女の人が医を業として生計を立てたのも立派ですし、ましてや苦労しながらも誇りであった父や祖先の霊を祀るため、野中家の遺品を売却し祠堂を建立した心意気は、人として大いに尊敬…です。

 御祭神:野中兼山命他野中一族21柱、古槇次郎八
 祭礼日:不明
 境内社:旧臣の霊
 由緒:野中兼山死没後、寛文4年(1664)野中家は改易、遺族や従臣は、宿毛の山内左衛門に預けられ、罪人として監禁された。
 蟄居生活40年、四人の男子が死亡後、三人の娘(寛、婉、将)と母、乳母たちは赦免となった。婉女と母、乳母の三人は、高知市朝倉の旧臣宅に寄偶し医を業として生計を立てた。
 婉女は野中家断絶後、先祖の祭りが絶えるので、旧臣古槇氏をたより、現在地に土地を買い、一間四面の小堂を建立して、神牌を納め、宝永5年(1708)に祭典を営み、祭田五反を寄進して古槇氏に祭祀を依頼した。
 社前の小祠には、兼山に仕えていた旧臣の霊を祀ってある。婉は享保10年(1725)12月、65歳の生涯を閉じた。同女の漢詩の短冊が神牌に納められ、現在このお堂には野中一族21柱と古槇次郎八の神牌が祀られている。
(境内案内板より)

 野中兼山 元和元年(1615年)〜寛文3年12月20日(1664年1月18日)
 江戸時代初期の武士で、土佐藩家老。諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、後主計、また伯耆と改め、最後にまた伝右衛門に復した、幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。
 南学の儒者。政治家。また灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励等、活動は多岐にわたる。
 元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。
 祖父野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父良明は5000石を領していた。藩主一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊死去後に約束が反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死去後、兼山は母とともに土佐に帰った。
 13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。
 寛永13年(1636年)養父の直継が病死し、野中家を継いで奉行になった。藩主忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。
 まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。
築港も推し進め藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。
 藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
一方で過酷な年貢の取り立て、華美贅沢の禁止などで領民に不満は貯まっていき、藩から逃亡する領民も出てくる状態へと進んでいく。 また、郷士の取り立てなどは上士の反発を貯めていく。
 明暦2年(1656年)藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工等が家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。野中兼山は失脚し、宿毛に幽閉される。その年に兼山は亡くなる。
 報復は過酷で男系が絶えるまで、一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後まで待たなければならなかった。
 兼山の功績は土木事業に多く、特に山田堰、柏島港、手結港等の優れた技術は高く評価されている。
 手結港は、我が国最初の掘込み港湾として慶安3年1650年に着手し明暦元年1655年完工している。漂砂による港湾埋設を防ぐため内港まで細長い航路で結び、南側に長い突堤を設けた。当時の規模は、南北60間、東西27間、干潮時一丈。
o 山田堰は、湾曲斜め堰として有名であったが昭和48年に上流に新たな堰ができ用済みとなり昭和57年に一部を除き撤去された。工事は寛永16年1639年に着手し25年後の寛文4年1664年に完成している。堰は、全長180間(324m)、幅6間(10.6m)、高さ5尺(1.5m)とあり築造には松材42800本、大石1100坪を用いたと言われている。
 土木事業の功績を伝えるため、手結内港に平成9年6月地元有志により兼山の頌徳碑が建てられている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)



社頭
参道入口に立つ一の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
参道の様子
境内入口
境内入口二立つ二の明神鳥居 鳥居に掛かる額
境内の様子
社殿
社殿内の様子
社殿内に掛かる野中兼山?の画像
末社
歌碑
境内北側の菜の花畑