賀茂八幡宮

幡多郡黒潮町入野6930(平成23年3月29日)

東経133度0分54.41秒、北緯33度1分5.3秒に鎮座。

 この神社は土佐入野駅の東南東約300mに鎮座しています。付近は入野県立自然公園となっている風光明媚な海岸線近くに鎮座している為、境内に「安政津浪の碑」「南海大地震の碑」が立っていたのが印象的でした。
 「大方あかつき館」が建つ神社の南西約200mの位置に木製の両部鳥居が立ち、綺麗に並んだ並木の中を真っ直ぐに参道が貫いています。神社入り口手前には小さくまとまってはいますが、力強い狛犬がおり、境内入口に立つ二の鳥居には「加茂神社 八幡宮」の額が掛かっています。
 境内正面奥に建立されている拝殿と本殿は未だ新しく、木の香が匂うようでした。又、境内には境内社が4社祀られ、前記の「安政津浪の碑」「南海大地震の碑」もあり、時節柄、日本の自然災害の猛威を今一度考えさせられました。

 御祭神:別雷命、合殿:帯中彦命、息長足姫命、品陀別命、武内宿禰命
 祭礼日:不明
 境内社:天神宮、竈戸社、山津社、尼津社
 由緒:幡多郡では宿毛市平田の高知座神社、土佐清水市下ノ加江の伊豆田神社とともに幡多三古社の一つで、式内社・賀茂神社に比定される古社です。

 賀茂神社はもと入野本村、今の賀茂屋敷と言われる所にあった。八幡社は石清水八幡の勧請で、もと早咲の八幡原と言う所にあったと言う。賀茂神社が現在地に遷座されたのは応仁の頃(1467〜)であろうか。また、八幡宮が合祀されたのは天正5年(1577)頃と言われている。古くから入野郷の総鎮守として、明治5年(1872)に社格を郷社と定められた。
 伝え云うに宝永4年(1707)亥10月の大潮の時に社殿が石口を離れて浮き上がったが、潮が干上がるにしたがって元の柱石へ座り異常がなかったといわれる。また俗伝に神体は伊田浦の漁師の釣針に懸かって上がったのだといい、祭礼は伊田の漁師の参加を待って行うのが常としたと言う。
 昔は祭式には田楽舞・流鏑馬(やぶさめ)・小踊花・踊・花取り・ねり・相撲・お神楽などが行われた。その日には毎年鹿(加)持村山党明神の神輿が来て、三体一所になばれがあり、双方から社人合わせて5人で勤めた。
(「大方町に歴史有り」より)

 未詳だが、古く加茂姓の者が、當社を祭り来たった。「南路志」は、賀茂大明神・八幡宮相殿・賀茂社者式内之一也と、幡多郡三座の一つ賀茂神社に比定している。
「式社考」は、「舊両社各々在二本村一、何時不レ知レ徒二併干此一」と、その年代不詳としている。當社は「神社明細記」に依れば應仁の頃(1467〜)、藤原家基御再興の由申傅えたとあるから、その頃だろうという説もある。また、當社の棟札の最古のものは、吉良播磨守平親貞が藤原朝臣定次喜兵衛尉本願般眷上人等と八幡宮の再建をしたことを記しているが、これを以て八幡宮移轉の時期だとも考えられる。天正5年(1577)6月。
「土佐物語」に、式社として賀茂神社を参詣したことが記載されているが、更に親元の「入野大方三郷地検帳」天正17年(1589)には郷中五ケ村に、計三町八反甘四代の社領が與えられている。(註五ケ村は入野・加持・鞭・田之土浦・ロ之口等)。
(「式内社調査報告」より)

神社の南西約200mにある参道入口
参道入口に立つ一の木製両部鳥居
参道の様子
社頭
境内手前にいる建立年代不明の狛犬
小さくまとまってはいますが、力強い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
境内入口に立つ二の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
「加茂神社 八幡宮」
境内の様子 史跡賀茂神社」石柱
拝殿
流造の本殿
境内社:竈戸社、山津社、尼津社
境内社:天神宮
安政津浪の碑 南海大地震の碑

参道に咲く枝垂れ桜