外川神社

横浜市保土ケ谷区瀬戸ヶ谷町194 (平成24年7月14日)

【神社情報・剣貝さんより】
JR保土ヶ谷駅東口より東海道を西へ(私は西口の旧東海道を歩きました。)徒歩10数分の所に上方見付跡モニュメント(デザインを優先してかL型になっていますが、保土ヶ谷宿の見附は江戸方、上方とも I 型でした。とのこと)があります。そこの小さな橋「仙人橋」を渡りますと、右手坂の上に鎮座しています。通称「お仙人さま」。社号標は外川山仙人社となっていました。外川神社、道祖神社、稲荷社の3社が並んでいます。横浜史稿(昭和10年刊)では境内社として宇賀神社が記載されていますが現在は本殿に合祀されています。

御祭神 日本武尊
配祭神 月夜見命(月山)・大山祇命(湯殿山)・稲倉魂命(羽黒山)

御由緒
江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講がありました。幕末の頃、その講元で先達でもあったC宮輿一が、湯殿 ・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)にまつりました。はじめ外川仙人大権現と称しましたが、明治二年の神仏分離令により、日本武尊を祭神と定め、社名を外川神社と改めました。その神験は著しく、ことに小児の虫封じや航海の安全に御利益があったとして、遠近から参詣する者が絶えませんでした。

神明社公式サイト>御由緒>外川神社はこちら。

虫封じ 夜眠らず泣き続ける、すぐ機嫌が悪くなる。昔から、そうした子供のことを「疳(かん)の虫がついた・虫気が起こる」と呼んで、「虫封じ(むしふうじ)」が行われてきました。「虫封じ」には、虫を取り除く意味と予防としての意味があります。外川神社は、虫封じの神様として150年余の歴史があります。
神明社公式サイト>御祈祷>虫封祈願 より抜粋

東海道分間延絵図。拡大写真はこちら。

江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に作成させた詳細な絵地図のことです。幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成させ、それらを含めて「五街道分 間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼んでおり、「東海道分間延絵図」はその一部で、東海道だけで全13巻に及ぶそうです。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中 (1789〜1801) のことで、文化3年 (1806) に完成しています。現在、東京国立博物館と逓信博物館に所蔵されているようです。

上方見付跡モニュメント

歴史の道 一里塚跡
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、日本橋から八番目のものです。

上方見附跡
保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば外川神社の前にあったとされています。見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。

仙人橋。嘗て外川仙人大権現と呼ばれていた頃の名残でしょうか。

神社全景

一体だけの素朴な先代様。

手水舎

拝殿 「外川山仙人社」の社号標

本殿

道祖神社

以前はもっと元町寄りに鎮座してましたのですが、明治二十年頃、鉄道敷設のため、外川神社に移され、更に境内整理の為、現在地に移されたもので、今度こそは安住の地とお考へになっていると思われます。

社号標等

稲荷社
初めは、岩崎町の服部さんの屋敷内の神様でしたが、何の祟りか、不幸続きで困惑された同家では、服部季太郎さんにたのんで、外川神社の境内に移したものです。
社号表、「外川椙社」。
開山主清宮與一徳碑 同じく川崎講社の碑