小田原市石橋420 (令和6年12月5日)
東経139度08分34.92秒、北緯35度13分06.19秒に鎮座。
この霊社は石橋漁港の国道135号線旧道入口に案内がありますから、それに従って東海道本線を乗っ越し急坂を上がっていくと左手に鎮座しています。といっても、地図には佐奈田神社とありますが、実際は明治の神仏分離時にお寺色が濃くなったようです。境内に入り、まず目にはいるのが何基も建っている、江戸消防記念会、鳶職の方々等が木遣を歌うために奉納された木遣塚です。ここはのど(声)・せき・気管支炎・ぜんそくに悩む人々を救う慈悲の誓願があると言われている関係で、あの張りのある声が命の木遣節を詠う方々が団体でお詣りに来られるそうです。
御祭神 佐奈田与一義忠
由緒
この附近は、源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景近以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。この時真田与一は、15騎で豪雄俣野五郎の75騎と戦い、両将組討ちとなったが与一が勝ったか股野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25才の命を花と散らした。
与一の郎党文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。
また、その先100mの処には、文三を祭る文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。
頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる。
境内由緒書き より。
参道入口
石仏と手すりの親柱
参道
境内入口
境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(大正2年(1913)5月建立)
石仏
境内
本堂
天女と木鼻の狛犬
本堂内部
観音堂
観音像
湘南そろばん塚 | 江戸消防記念会 |
脇参道入口