稲毛神社

川崎市川崎区宮本町7-7(平成19年1月28日)

 この神社は川崎駅の東約800m、第一京浜と富士見通りの交差地点に鎮座しています。市街地にあり良く整備されてはいますが、鎮守の杜も護られ、広い境内には多数の境内社や、芭蕉、子規の句碑などが点在しています。また日本で唯一ここにしかないのではないかと思われる、天地睨みのブロンズ製狛犬も棲息していました。

 主祭神:武甕槌神
 配神:経津主神、菊理媛神、伊弉諾神・伊弉冉神
 由緒:創建年代は不詳ですが、御神木大銀杏の樹齢が1千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。社伝によれば、東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武甕槌神をまつり、天皇軍の先勝を祈る「武甕槌宮」として建てられたと伝えられています。第二十九代欽明天皇の御代にもこの地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀し、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。その後、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以後「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などと呼ばれていました。
 鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて社殿の造営に当たりました。しかし足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。
 その後、秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜り、とくに家康公江戸入部に際しては随神門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。江戸時代中期以降は川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。
 慶応四年、有栖川宮熾仁親王殿下の「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称、その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期以降「稲毛神社」という呼称が定着しています。
(稲毛神社公式HP参照)

社号標 神社入口
芭蕉句碑
  秋十とせ 却って江戸をさす故郷
(「野ざらし紀行」巻頭二番目の句)
正岡子規没後100年記念句碑
六郷の 橋まで来たり 春の風
(寒山落木巻三(明治27年)
春の風連句の一句)
川崎宿の有力な旅籠や商人達が奉納者として名を連ねた嘉永2年(1849)建立の石の大鳥居 境内の様子
昭和15年生まれの招魂社系狛犬
(皇紀600年(昭和15年)11月建立)
拝殿 本殿
平成3年御大典記念として建立されたブロンズ製・天地睨みの狛犬
( 籔内左斗司作 施工現代彫刻センター 平成3年2月17日建立)
境内社・第六天神社、堀田稲荷神社入口

境内社・第六天神社 境内社・堀田稲荷神社
境内社・子神社(ねのじんじゃ)
御祭神:大国主命
江戸時代には須河原(現在の旭町、港町)の鎮守社で、明治3年建造の社殿は総欅造りです。明治45年、合祀令により勧進主の一人森五郎作邸に移され、邸内社となっていましたが、昭和32年、森家転居の際、この社に遷座されました。明治3年にはまだ川崎宿が存続しており、この社殿は現存する宿場時代の唯一の建物です。
境内社・大鷲神社
御祭神 :日本武尊
御由緒:大鷲神社がここに祀られた正確な年代は分かりませんが、江戸時代末期か明治初年のことと思われます。
境内社・左から
福田稲荷神社、金刀比羅宮、松尾神社、大神宮、八坂神社、御獄神社、三峯神社
神楽殿 境内社・和嶋弁財天社
御祭神:市杵島姫命
御由緒:古くから河崎山王社(稲毛神社)の弁天池(放生池)の島「和嶋」にまつられていて、神池から流れ出る小川のほとりで行われた「曲水の宴」は優雅なものであったと伝えられています。 
樹齢約一千年の御神木・大銀杏
江戸時代には東海道を旅するものに「山王様の大銀杏」として知られ、安藤広重の『武相名所旅絵日記』などにも描かれています。
旧社殿跡地の碑
川崎市指定文化財・
川崎宿勘定支配格の田中丘隅
ゆかりの手洗石
御神木の周囲に置かれた十二支のブロンズ像(川村易制作)

   
   
   
干支の猪がゆかしき姿で描かれた絵馬