新宮神社

鎌倉市雪ノ下2 (平成24年2月26日)

東経139度33分38.39秒、北緯35度19分29.11秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
鶴岡八幡宮の裏山、大臣山の西側のふもとに鎮座しています。碑文では後鳥羽院、順徳院、長賢を祭るとなっていますが、今は長賢に代わり土御門院になっていました。当日、鶴岡八幡宮境内の舞殿では結婚式が行われていました。

御祭神
後鳥羽天皇(承久の乱後隠岐島へ配流された。首謀者)
順徳天皇(承久の乱後佐渡島へ配流された。後鳥羽天皇の第三皇子)
土御門天皇(承久の乱後 自ら望んで土佐国へ配流された。討幕計画に反対していた。後鳥羽天皇の第一皇子)

御由緒
四条天皇延應元年(1239)鎌倉中處々喧譁闘諍の事あり、特に其の5月22 日には大騒動を起せしと云ふ。茲日(このひ)後鳥羽院は隠岐に崩御し給ふ。由りて斯は其の怨念の然らしめし所ならんとて寶治元年(1247)年4月大臣山の西麓に今宮を建て 其院(後鳥羽院)の尊霊を勧請し奉り順徳院及び護寺僧長賢を合祀せらる。長賢は承久の役、官軍に属して奮戦後捕はれて陸奥に謫(たく)せられ(配流され)し者といふ。今宮は又新宮と書す。
境内石碑より

管理人の一言。
承久の乱で流罪となった後鳥羽上皇と順徳天皇、及び護寺僧長賢を祀る神社として創建されたようです。延応元年(1239)、上皇が失意のうちに崩御すると、同年12月には三浦義村が、明けて仁治元(1240)年1月には北条時房が相次いで急死。仁治三年(1242)には三代執権、北条泰時が赤痢に罹って死亡(狂死とも)。やはり上皇の祟りはあったのです。

国宝後鳥羽天皇宸翰御手印置文

此の所労さりともと思へとも 随日大事に成れハ おほやう(大様)一定と思てある也、日来の奉公不便に存れとも 便宜の所領もなきあひた、力不及 於水無瀬・井口両方、無相違知行して 我後生をも返  とふら(弔)ふへし もちた(持田)は真念すくに親成にゆつりたれハ よも父もたか(違)へし 加賀ハ信氏にそたハ(給)はんすらむとおも(思)へとも おほこ(大子)にて とか(科)なからんに 一方なりとても 親成をきゝなから 弟に給へき道理なし おな(同)しく親成知行してわか(我)こゝろニ信氏にもあつ(預)けんハ そのかき(限)りなし 一の人・家人なとになりなハ 信氏は官位もとゝこほ(滞)らすあらんにハ 父もそれをこそもて なさむすれ たと(譬)ひさりとも このをして(押手)をそむ(背)きて この領々をもをしとる(押取)ほとのことは いかてかあるへきとこそ存すれ

神社全景。史跡 鶴岡八幡宮境内 新宮。

社殿。今宮 御祭神 土御門天皇・後鳥羽天皇・順徳天皇。

今は憎き北条氏も滅び、怨霊となっていた後鳥羽天皇の霊も鎮まっていると思われます。