江島神社

藤沢市江の島2-3-8(平成20年4月19日)

東経139度29分3.46秒、北緯35度17分55.84秒に鎮座。

改めて場所を説明する必要が無い程、有名な神社と言うか、観光地と言った方が相応しい気がします。しかし、一応の説明をすると、JR藤沢駅の南3km程、小田急・片瀬江ノ島の南1km程の辺りに鎮座しております。観光図と由緒書はこちら。

平成14年4月15日剣貝さんよりメールを戴きました。龍口明神社参拝後、ここ江の島の龍恋の鐘を訪ねたようです。最後に追加してあります。

江の島全景

島と言っても、昭和39年(1964)に架けられた江の島大橋があり、車で行けます。しかし、橋の無かった江戸時代は干潮時のみ歩いて渡れたようです。

参道入口。青銅の鳥居は文政4年(1821)建立。願主、扇屋宇右衛門・大黒屋勘四郎・松葉屋半蔵。松葉屋は江戸吉原の遊郭の名。江戸時代は生身の女体弁財天様が参拝客を大歓迎してくれたようです。

藁座に彫られた玄武。

参道右手の岩本楼。明治の神仏判然令以前は、勿論江島神社では無く寺院。ここは現在岩本楼と称し旅館となっていますが、旧岩本院とあるように、唯一院号の使用を許可され、江の島全山の惣別当をつとめていた所です。岩本楼公式サイトはこちら。

神社入口と社号標

最初の石段を登った左右に居ります。鬣をくわえた艶めかしい吽と逞しい親父面の阿。鮮やかな彫り分けが素晴らしい。拡大写真はこちら。

狛犬の台座。江戸時代、芸能の神様、弁財天を祀った江ノ島。この狛犬は芸の上達を願って奉納したのでしょうか。

(石工・陣内平四郎 慶応元年(1865)7月建立)

瑞神門

平成十四年奉納の弁財天。明治の時脇に追いやられた弁財天が再び正面に復活!。そう言えば、平成五年、廃仏毀釈により取り壊された江の島大師が創建されています。徐々に仏教色が戻りつつあるようです。有名な裸弁財天の御尊像は奉安殿にお祀りされているそうです。

田寸津比賣命をお祀りしている、辺津宮。

弁財天を祀る奉安殿

八坂神社

素晴らしい出来栄えです。江戸狛の典型です。拡大写真はこちら。

(安永10年(1781)正月吉日建立)

稲荷社・秋葉社

市寸島比賣命を祀る中津宮。

拝殿前左右のやや素朴な江戸狛犬。拡大写真はこちら。

(寶暦13年(1763)5月吉祥日建立)

多紀理比賣命を祀る奥津宮。

かなり特異な顔つきです。阿吽ともに玉でしかも対称になっていません。拡大写真はこちら。

(宝暦11年(1761)7月吉日建立)

竜宮

竜宮の後ろに有ります。狛犬の下半身に見えます。

岩屋の石仏

鎌倉幕府の草創に大きな力となった北条時政がここ江ノ島に参籠して子孫の繁栄を願ったくだりの絵図。太平記より。

時政参籠榎嶋事
昔鎌倉草創ノ始、北条四郎時政榎嶋ニ参籠シテ、子孫ノ繁昌ヲ祈ケリ。三七日ニ當リケル夜、赤キ袴ニ柳裏ノ衣着タル女房ノ、端厳美麗ナルガ、忽然トシテ時政ガ前ニ来テ告テ曰、「汝ガ前世ハ箱根法師也。六十六部ノ法華経ヲ書写シテ、六十六箇國ノ霊地ニ奉納シタリシ善根ニ依テ、再ビ此土ニ生ル事ヲ得タリ。去レバ子孫永ク日本ノ主ト成テ、栄華ニ誇ル可。但其挙動違所アラバ、七代ヲ過グ不可。吾言所不審アラバ、國々ニ納シ所ノ霊地ヲ見ヨ。」ト云捨テ帰給フ。其姿ヲミケレバ、サシモ厳カリツル女房、忽ニ伏長二十丈許ノ大蛇ト成テ、海中二人ニケリ。其迩ヲ見二、大ナル鱗ヲ三ッ落セリ。時政所願成就シヌト喜テ、則彼鱗ヲ取テ、旗ノ文ニゾ押タリケル。今ノ三鱗形ノ文是也。其後辨才天ノ御示現二任テ、國々ノ霊地へ人ヲ遣シテ、法華経奉納ノ所ヲ見セケルニ、俗名ノ時政ヲ法師ノ名二替テ、奉納筒ノ上二大法師時政ト書タルコソ不思議ナレ。サレバ今相摸入道七代二過テ一天下ヲ保ケルモ、江嶋ノ辨才天ノ御利生、又ハ過去ノ善因二感ジテゲル故也。
今ノ高時禅門、已二七代ヲ過、九代二及ベリ。サレバ可亡時刻到來シテ、斯ル不思議ノ振舞ヲモセラレケルカトゾ覚ケル。

とても抹香くさい因縁話です。嘗てこの地が仏教の霊地だった事を物語っています。

富岳三十六景に見る江ノ島

【神社情報・剣貝さんより】
かつて龍が住んでいたとされる岩屋の洞窟の上にあるため龍野ケ岡と呼ぶとのこと。爺が一人で行く所ではないが、龍口明神社に関係あるので。

龍恋の鐘
江ノ島龍野ヶ岡自然の森内に平成8(1996)年に完成した。五頭竜伝承にちなんだ新名所で、五頭竜が弁天に恋をしたことから由来したものである。恋人の丘に存在する。龍恋の鐘の周りの柵には恋人の名前を刻んだ南京錠をぶら下げる習慣が、完成と同時にまもなく始まった。
ウィキペディア  より

鎌倉昔話「五頭龍(ごづりゅう)と天女」
むかしむかし、1500年も大昔。鎌倉の深沢に、まわりが四十里という湖があり、主の五頭龍が住んでいました。山崩れや洪水を起こし、田畑を埋めたり押し流したりして、村人を苦しめていました。欽明天皇13年4月12日、大地震が起き、地震は十日の間続いたが、23日の辰の刻(とき)に、うそのように止まりました。こんどは海底から大爆発が起こり、まっかな火柱とともに岩が天まで噴き上げられて、小さな島ができました。これが江の島なのだと。五頭竜は、このありさまを湖の中から見まもっていた。すると、天から美しい姫が島に舞い降りました。この姫が弁天様とのこと。五頭竜は、天女に一目惚れし江の島へ行くと求婚しました。すると天女は「おまえはあらんかぎりの罪をおかしてきた。天女はそのような者の妻にはなりませね」と。五頭竜は改心し天女と結婚できました。それからは日照りの年には雨を降らせ、実りの秋には台風を跳ね返し、津波が襲ったときには波にぶち当たって押し返していた。村人達に感謝されました。しかしそのたびに、五頭竜の体は衰えていった。ある日「わたしの命もやがておわるでしょう。これからは山となって村をお守りいたします」と、海を渡って帰ると一つの山になりました。これが片瀬の龍口山で、山の中腹には龍の形をした岩があって、江の島の天女をしたうようにずっと見つめていたと。
江島神社公式サイト「江島縁起」などを参考にしました。

嘗ては、龍野ケ岡と呼ばれたようですが、現在は恋人の丘。ここの「龍恋の鐘」を恋人どうしで鳴らすと、けっして別れないそうだ。しかし、何故鐘が西洋風なのでしょうか。恋人の丘に相応しいのはやはり、ウエディングベルか。梵鐘ではなにやら抹香臭いからと思われます。

しかし、別れたくなった時はどうするのでしょうか?。管理人(爺)のいらぬ心配。

さらに、絆を強める為、鐘の前のフェンスにかけられた南京錠。又、しかしだ、こんなに結ばれたいカップルが沢山いるのに、少子化で人口が減っている訳を、誰か教えて欲しいものです。

帰りの船より見る江ノ島。

御朱印

江島神社公式サイトはこちら。