子之神社

足柄下郡湯河原町福浦129 (令和6年12月5日)

東経139度08分05.46秒、北緯35度08分55.70秒に鎮座。

この神社はJR東海道本線・真鶴駅から福浦漁港に向かって建て込んだ家々の間の狭い道を下ると、醍醐院というお寺の左脇に階段の参道が見えます。階段を少し上がると社号標と鳥居が建ち、参道踊場には祈りの石(美女石)という安産子授け、大漁祈願の霊験もあらたかであると云われる霊石が置いてありました。その左上の境内には藁葺き屋根の素朴で存在感のある彫刻が施された拝殿が建ち、覆い屋の中の本殿は檜皮葺流造だそうです。この日は拝殿内で神事が行われていたので、写真撮影はできませんでしたが、拝殿には町指定 文化財で天保時代の女性絵師・八十島文雅らによる素晴らしい出来映えの花鳥獣魚の格天井絵が描かれています。又、境内には太めの狛犬が多いこの地域でも更に上を行く、存在感、ボリューム感たっぷりの江戸型狛犬がデ〜ンと構えていました。

御祭神 大己貴命・素戔鳴尊・天照國照彦天火明櫛甕玉饒速日尊・倭建尊・熊野三所大権現・金剛蔵王権現・市杵嶋比賣命・子守大神

縁起
遙か太古の昔、大海原の彼方から、龍王、妃、王子の三柱の神々が、荒藺乃崎(現在の真鶴岬)に御船に乗られて御出でになり、当地を開拓されたと伝えられています。その後、文武天皇4年(700)、役行者と共に、当地を訪れた穂積濃美麻呂卿が、師である役行者と共に、陰陽の秘法を以て、金剛蔵王権現、弁財天、子守大明神をお祀りしたのが当神社の創祀であり、その折に、当地に「霊妙なる薬湯」を見出したのが、現在の湯河原温泉の始まりと伝えられています。時は移ろい、平安の世は、天暦7年(953)、濃美麻呂卿の10代目の孫、穂積俊基卿が、当地海岸の「竜宮の鼻」と称される大岩に、金色に輝く神霊が降臨されたのをお迎えし、初めてやしろを設け、お祀りしたのを創建とします。
その後、当地の豪族、荒井刑部實継公一党の崇敬が篤く、その主君、源義家公、その子孫、源頼朝公、源義経公も、篤い信仰を寄せました。時は降り、應仁の大乱も収まりし、南朝・明應10年(1478)、戦乱に明け暮れる都を逃れ、御一門の山田宮を伴われ、楠一族、菊池党、高橋党などの忠臣の警護を受けつつ、当地に尊き御身を寄せられた、後醍醐天皇の玄孫の宮に坐す、小倉宮尊成親王は、時の神官、大和守重勝の娘、安津佐姫を娶られ、祀職となられ、お若きみぎり、吉野は金峯山に於いて、修行に励まれていた折のこと、大天狗から法力を授けられた故事にちなみ、穂積天佑と称され、この名が後の代々の宮司の法名とはなり、又、平安京の北方の守護である子之宮の神霊を、当神社に併せ祀られました。
他に、やしろの杜に住まう梟の鳴き声を、瑞祥とされ、この地を「福ぞ来たらむ里」と名づけられ、それが現在の福浦の地名の由来となった、と云う逸話も残されています。爾来、第53代宮司、天佑穂積宜龍に至るまで、連綿と途絶えることなく、その血脈法統は受け継がれ、地元はもとより、広く日本全国、また海外に至るまでも、多くの人々の信仰を集め、心の拠り所となっています。
境内由緒書き より。

参道入口

参道

境内入口

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(石工・一品村 安五郎 福次郎 文久3年(1863)癸亥6月吉日建立)

拝殿内部

本殿覆屋


龍神社

境内社

石祠

石祠と石仏

庚申塔

忠魂碑・忠霊碑

神輿