八幡神社

大分県宇佐市南宇佐・宇佐神宮

「宇佐神宮は全国4万社余りの八幡宮の総本宮です。八幡さまは応神天皇の御神霊で、欽明天皇の32年(571)に初めて宇佐の地に御示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入、新しい国づくりをされた方で、その神徳は強く顕現し、神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により現社地に御殿を造立、八幡神を奉祀されました。これが宇佐神宮の創立です。」以上宇佐八幡公式サイトより。

応神天皇
 仲哀天皇第四子。母は神功皇后。諱は誉田別尊。仲姫を皇后とし、仁徳天皇等が子どもである。応神天皇は、仲哀天皇九年二月に筑紫で生まれたが、仲哀天皇の死後、神功皇后が事実上政治を行い、応神天皇は皇太子となり、神功皇后の死後即位した。応神天皇の時代には、日本国内で皇権が拡大した。また、弓月君(秦氏の祖)・王仁(西文氏の祖)・阿知使主(東漢氏の祖)等の帰化人の渡来が特に集中している。応神天皇四一年二月、明宮、あるいは大隅宮にて死んだ。天皇の御陵は、河内国恵我藻伏崗陵(現在、大阪府羽曳野市、応神天皇陵)といわれており、古墳の面積では仁徳陵が最大だが、容積では応神陵が勝っているといわれる。宇佐八幡宮にも祀られている。なお、『宋書』に見える倭王讚を応神天皇だとする説がある。
「日本古代人名辞典第二巻」より

神功皇后といえば、応神天皇を妊娠したまま「三韓征伐」を行い、その後筑紫の宇美で応神天皇を出産したと伝えられる、超人的な皇后です。「三韓征伐」後、皇后は大阪の住吉の地に航海の守護神、住吉大神を祀り、その後自身も祀らせたと云う。その住吉大社の創建は、神功皇后摂政11年、辛卯の年(211)とされている。それに比べると、宇佐八幡宮の創建、神亀2年(725)は遅すぎないでしようか?。勝手な想像だが、宇佐の神、八幡大菩薩は応神天皇とは無関係だったのではないでしょうか。

大阪府羽曳野市誉田の地に誉田八幡宮が鎮座しておりますが、ここは体積では日本一と云われる応神天皇陵のすぐ近くです。勿論応神天皇を主祭神とし、御陵祭祀を司ってきたという。、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願と言われる。欽明朝と応神天皇とはどのような関係にあったのでしょうか。父の継体天皇が応神天皇、五世孫に当たるからでしょうか。またこの頃ヤマト王朝もやっと落ち着いたのでしょう。