筑波山神社

つくば市筑波1-1(平成20年7月13日)

東経140度6分16.06秒、北緯36度12分37.75秒に鎮座。

御祭神:筑波男大神=伊弉諾尊・筑波女大神=伊弉冊尊

祭日:
春の御座替祭 四月一日
秋の御座替祭 十一月一日

筑波山神社御造営由来記
  筑波山は、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神御降臨の霊山で、西峰に男大神、東峰に女大神を祀り、筑波山神社と崇め奉る。世々筑波国造が奉祀し、嵯峨天皇の弘仁十四年正月官社となり、延喜式内名神大社に列す。
 慶長の初め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍家第一等の御祈願所と定め、寛永十年十一月三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を悉く寄進造営し輪奐その美を尽す。御神領千五百石。元治元年の筑波山義挙を経て、明治元年三月、神仏分離の令により当山は神体山信仰の古制に復し、明治八年拝殿を造営す。
 その後、昭和三年四月文部省古社寺保存課安間立雄技手の設計管理にて唐破風千鳥破風付銅板葺入母屋造りに改修し、昭和三十年五月男体山御本殿を改築す。
 昭和五十一年五月二十四日・二十五日の両日全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。越えて昭和五十四年五月御本殿御造営奉賛会を結成して、六十五年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し、更に記念事業として九十五年前建築の社務所に代え、「人民集賀と御神徳を称えた常陸風土記縁りの参集殿を建立して千手堂に三重塔を配した江戸時代の結構の再現、及び百年前に亜鉛板で仮葺きした随神門屋根の改修をはかり、氏子崇敬者からの浄財寄進により左の事業を行い、明治以来の宿願を達成す。
境内由緒書より。全文はこちら。

筑波山のくだりで触れたが、明治迄神仏習合の時代は千手観音・十一面観音を本地仏とする両大権現。延暦元年(782)徳一上人が筑波山頂二社(神体は筑波山の西峰と東峰とする)を再建、筑波山大権現と称し、中腹に堂宇を建立して、本尊千手観音を安置、知足院中禅寺と号したという。

境内の右手を流れる川に千手沢と書かれています。千手観音の千手でしょうか。山中には今も多くの堂宇の礎石が点在するという。歴代中禅寺僧侶の墓碑が中禅寺の上に並んでいたが、それらは神仏分離の時、捨てられたようです。嘗て、ケーブル軌道、鳥居附近に散在していたという。但し光誉上人(2世)の墓(五輪塔)のみは残されているようです。

神社入り口

江戸時代には有った、三重塔・八角堂・経蔵等は破壊されたようですが、この御神橋と仁王門は残されたようです。

江戸時代の図会を見ると、御神橋の左手にもう一本の橋が架けられています。多分そちらが、その他大勢用でこれは将軍専用だったのかも知れません。

阿吽が逆で縦置きです。しかも阿が子と玉を独占しています。拡大写真はこちら。

破壊を免れた仁王門。ただし名称は随神門と変えられています。仁王等の仏像や経典は境内に積み上げられ燃やされたようです。当時の日記はこちら。

倭建命 豊木入日子命

木鼻の狛犬もなかなかの出来栄えです。拡大写真はこちら。

もう一段高い所に建つ、明治八年造営の拝殿。

嘗てここに建っていた千手堂と、参集殿の辺りに建っていた三重塔は破却され、現在の姿になったようです。江戸時代の筑波山中禅寺はこちら。

獅子山の上でなかなか精悍な顔つきで参拝者を睨んでいます。多分明治の奉納かと思われます。拡大写真はこちら。