土浦城跡(亀城公園)

土浦市中央1(平成20年10月12日)

東経140度12分4.81秒、北緯36度4分54.19秒に鎮座。

 この城は平安時代に平将門が砦を築いたという伝承があるといわれていますが定かではありません。
 永享年間(1429〜1441)に今泉三郎が築城したのが始まりといわれ、その後、永正年間になると小田氏の家臣である菅沼勝貞が城主として入城しましたが、天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡した後は、結城秀康、藤井松平信一・信吉、西尾忠永・忠照、朽木稙綱・稙昌、土屋数直・政直、長沢松平信興と何度も城主が入れ替わり、貞享4年(1687)に駿河田中から土屋政直が6万5000石(後に9万5000石)の大名として入城すると、そのまま転封することなく土屋氏10代の挙直の時に版籍奉還、廃藩置県となり土浦城は廃城となりました。
 なお廃城後の明治17(1884)年の火災によって、本丸の建物の大部分が焼失、西櫓、太鼓門、霞門だけが残りました。

「土浦城跡および櫓門」案内はこちらで

「史跡土浦城址及び櫓門」碑 土浦城址東北入口
霞門
本丸東北の薬医門である霞門と前面の枡形。霞門は太鼓門とともに明治の火災を生き残った現存建築遺構です。

本丸跡に再建された西櫓、土浦市立博物館の一部となっている東櫓
本丸跡から見る太鼓門と土浦城跡を公園化する条件となった土屋神社
本丸櫓門(太鼓門)
本丸跡に残る城門で、明暦2年(1656)に城主朽木稙綱が建てたものです。入り母屋造りで両側に切石石台をもつ二層の櫓門で、かって二階の屋根裏に、時刻をつげる大太鼓が置かれてあったところから別名・太鼓櫓とも呼ばれています。
二の丸跡に聳える県指定文化財・シイ
二の丸跡の様子 高麗門付近から見る内濠と東櫓

かつての二ノ丸門(二ノ門)の位置に移築された前川口門の高麗門 高麗門右側にある「外丸跡」碑

土屋神社へ

聖徳太子堂へ