下宮八幡宮
古河市宮前町(平成19年7月6日)
【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
この神社は、地図には八幡神社と載っていますが、社号標は「下宮八幡宮」となっていました。国道354号線を古河市内に向かい、渡良瀬川に架かる三国橋を渡ってすぐ左折、それから右折して左折した宮前町にあります。雀神社が近いです。享保9年と昭和15年の狛犬が迎えてくれました。津島牛頭天王の前にも年代不明の狛犬が居ます。鳥居には文化元年の文字が見えます。鳥居の前には二つの力石がありました。二つある水盤も江戸時代のもので、文化14年と嘉永元年です。
御祭神:誉田別命(下宮八幡宮)、 素盞嗚尊(牛頭天王)、倉稻魂命 (稲荷神社)
例祭日:3月12日・祈年祭、7月15日・津島天王祭、8月15日・十五夜仲秋祭、11月26日・献穀祭
由緒:この社は、下宮八幡宮、牛頭天王社、稲荷神社の三社から成り立っています。この三社は天文年間(1532〜54)旧栃木県谷中村字下宮の守護神として鶴岡八幡宮(鎌倉市)津島神社(津島市)より勧請し創建されました。
明治14年の頃より始まった足尾銅山の発展と共に、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流入し、河川の氾濫、堤防の破壊、作物等の被害甚だしく、谷中村は不能の地と化しました。同38年県庁は谷中村を買収、代議士だった田中正造の明治天皇への直訴もむなしく、同43年河川改修により氏子は各地に移住を余儀なくされました。現在の社殿は明治11年の改修で、大正2年現在地に遷座、平成5年改築落成しました。
古河歴史博物館学芸員 鷲尾政市さんの「田中正造と古河町民」に谷中村と鉱毒事件について詳しく書かれたものがありますので、ここに転載します。「古河市の北西にひろがる渡良瀬遊水地は明治末年から藤岡台地を掘って渡良瀬川の流路を赤麻沼へと付け替えて造られたものです。またこの一連の河川改修工事によって、古河城址も消滅し、かつての中田宿も移転を余儀なくされました。この遊水地計画は田中正造の明治天皇直訴を契機に高まった世論にたいし政府がとった政策といわれます。遊水地を鉱毒溜として東京への流入をおさえると同時に、たび重なる洪水を防ぐという目的でした。しかし田中正造はこの遊水地は鉱毒問題を治水問題にすり替えるものと反対します。みずから周辺の河川調査にあたり自然な治水方法を考えます。それは徳川幕府が江戸湾に流れ込んでいた利根川を人口的に東の銚子に付け替えたことに無理があり、昔の流れに戻せば遊水地は必要ないと訴えますが、鉱毒の東京流入を恐れてか実現しませんでした。ところで遊水地となり廃村となった谷中村はかつて古河藩領の谷や中じゅう郷ごうとよばれる地帯でした。明治にはいり、このうちの8か村がまとまって谷中村となります。廃村にともない約450戸、人口2700人の住民は次々と移転していきました。最初の移転では古河に121戸と最も多く、藤岡91戸、野木66戸等のほか那須や遠く北海道へも移りました。移転した人々は各地で苦労しながら新しい生活を築きますが、古河に移転した人々は、もとの村の神社を移築して現在までお祭りをつづけています。谷中村は廃村となりましたが谷中のくらしはその先々の土地で息づいているといえます。」

神社入口 |
社号標 |
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胸に「享保9年(1724)9月吉日」の建立年代と共に「下宮村施主中」の文字が見えます。鼻筋が通った「優しげなワンコちゃん」という感じの狛犬です。はじめからは大分進化し、この年代の狛犬としては洗練された造形となっています。吽は少し背中から離れた尾の先が欠けていますが、背には未だ鬣が線書きで残され、結構良い保存状態です。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(享保9年(1724)9月吉日建立) |
昭和15年生まれの岡崎現代型狛犬 |
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(昭和15年(1940)建立) |
鮮やかに彩色された拝殿 |
拝殿正面に架かる社額
「八幡宮」 |
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同じく鮮やかに彩色された
本殿覆い屋 |
境内社・稲荷神社
お狐様もいらっしゃいます。 |
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境内社・津島牛頭天王社 |
大黒天、金比羅大権現等 |
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津島牛頭天王社前の建立年代不明の狛犬
上半身に比べて随分前脚や下半身の細い身体をしています。 |
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文化14年と嘉永元年の銘の入った水盤 |
鳥居前の二つの力石 |
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