下宮八幡神社

古河市宮前町6-8 (令和6年1月4日)

東経139度42分08.75秒、北緯36度11分52.54秒に鎮座。

この神社は、JR東北本線・古河駅の北西1.5km程の辺り、宮前町の街中に鎮座しております。

御祭神 誉田別尊・素盞鳴尊・倉稲魂神

由緒
当三社は天文年間(1532〜54)旧栃木県谷中村字下宮(戸数200有余、人口1200有余)の守護神として鶴岡八幡宮(鎌倉市)、津島神社(津島市)より勧請し創建されました。
明治14年(1881)の頃より始まった足尾銅山の発展と共に、銅山の鉱毒渡良瀬川に流入し、河川の氾濫、堤防の破壊、作物等の被害甚しく、谷中村は全不能の地と化しました。同38年(1905)県庁は谷中村を買収、この間本県選出代議士田中正造翁は帝国議会へ鉱毒の被害、谷中村復活に質問書を提出。同34年(1901)12月に意を決し本事件に関して直訴を決行しました。同43年(1910)河川改修により氏子各地に移住。更に同45年(1912)堤外も買収され400有余年の歴史を有する氏子は悲惨しました。
現在の社殿は明治11年(1878)の改築で、大正2年(1913)現在地にご奉遷、爾来年序を経て修復、平成5年(1993)7月改築落成したものです。
境内由緒書き より。

古河歴史博物館学芸員 鷲尾政市さんの「田中正造と古河町民」に谷中村と鉱毒事件について詳しく書かれたものがありますので、ここに転載します。「古河市の北西にひろがる渡良瀬遊水地は明治末年から藤岡台地を掘って渡良瀬川の流路を赤麻沼へと付け替えて造られたものです。またこの一連の河川改修工事によって、古河城址も消滅し、かつての中田宿も移転を余儀なくされました。この遊水地計画は田中正造の明治天皇直訴を契機に高まった世論にたいし政府がとった政策といわれます。遊水地を鉱毒溜として東京への流入をおさえると同時に、たび重なる洪水を防ぐという目的でした。しかし田中正造はこの遊水地は鉱毒問題を治水問題にすり替えるものと反対します。みずから周辺の河川調査にあたり自然な治水方法を考えます。それは徳川幕府が江戸湾に流れ込んでいた利根川を人口的に東の銚子に付け替えたことに無理があり、昔の流れに戻せば遊水地は必要ないと訴えますが、鉱毒の東京流入を恐れてか実現しませんでした。ところで遊水地となり廃村となった谷中村はかつて古河藩領の谷や中じゅう郷ごうとよばれる地帯でした。明治にはいり、このうちの8か村がまとまって谷中村となります。廃村にともない約450戸、人口2700人の住民は次々と移転していきました。最初の移転では古河に121戸と最も多く、藤岡91戸、野木66戸等のほか那須や遠く北海道へも移りました。移転した人々は各地で苦労しながら新しい生活を築きますが、古河に移転した人々は、もとの村の神社を移築して現在までお祭りをつづけています。谷中村は廃村となりましたが谷中のくらしはその先々の土地で息づいているといえます。」

神社入口

拝殿

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(享保9年(1724)9月吉日建立)

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(皇紀2600年記念 昭和15年(1940)建立)

拝殿内部

本殿覆屋

本殿正面


末社

末社を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

稲荷神社