鹿島神宮

鹿嶋市宮中2306-1 (平成17年9月4日)

東経140度38分5.32秒、北緯35度57分56.29秒に鎮座。

この神社は東関東自動車道の潮来ICから水郷道路を経て国道51号線にでて、北浦に架かった神宮橋を渡り、暫く走るとあちこちに案内がでているので自然に神社に行き着きます。日本全国の鹿島神社の総本宮だけあって、何もかも桁違いの規模の神社です。でもここは大神社にありがちな奢りや、けばけばしさが微塵も感じられず、清々しく気持ちの良い参拝が出来ました。

御祭神:武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

創祀:神武天皇御即位の年に、神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと傳える。

概要
武甕槌神を祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。
鹿島神宮の祭神は、『万葉集』にも詠われる「鹿島の神」という一般名称でも知られ、かつて地震は「地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていて、その大鯰を押さえつける「要石」を、鎮護する地震の守り神として現在にも伝わっている。
楼門は「日本三大楼門」に数えられる。

歴史
社伝によると、創建は神武天皇1年、紀元前660年。『常陸国風土記』は、天地が開ける以前(天地草昧已前)に高天原から天下った「香島の天の大神」の神話と、崇神天皇、倭建天皇、天智天皇の時代に祭祀や造営が行われたことを伝える。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。
鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。宝物殿には悪路王(アテルイ)の首と首桶が祀られているが、これは寛文四年(1664 年)に奥州の藤原満清が奉納したものといわれる。
ウィキペディアより

境内案内図や由緒書等はこちら。 鹿島神宮公式サイトはこちら。

平成23年1月1日1948さんよりメールを戴きました。初詣に行かれたようです。正月の鹿島神宮はこちら。

大鳥居と社号標

参道

寛永十一年 (1634) に水戸初代藩主徳川頼房公奉納の楼門

元和五年(1619)二代将軍徳川秀忠奉納の拝殿(本殿も)

拝殿内の様子

神功皇后ゆかりの常陸帯が伝えられている本殿(但し見た人はいないようです)

本殿修理するときなど一時的に神様をお遷しする仮殿(重要文化財・元和四年(1618)建立)

奥宮への入り口

奥宮への参道

祭神:武甕槌大神荒魂
社殿:慶長十年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉建されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当り現在地に引移して奥宮社殿となった。重要文化財

奥宮より要石へ至る参道

要石
神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも、
或は古代における大神奉斎の座位として磐座とも伝えられる霊石である。
この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所しらずという。
水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても堀り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。
信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。

参道途中には武甕槌大神と大ナマズのレリーフも

御手洗池。誰が入っても、同じ深さの池と言い伝えられています。鹿島神宮の境内にある御手洗池の水深は、大人が入っても子供が入っても、乳を越えないと言われています。旱魃(かんばつ)にも、絶えることのない霊泉で、御手洗池の水は、神代より枯れることなくその水は清く、今でも「お茶を立てるときの水に」と、くみにくる人が絶えないようです。

みたらし公園の様子。お水を汲みに来る方はここの入り口から入られるようです。


末社 稲荷社
祭神 保食神
俗に銚場の稲荷様と呼ばれ霊験あらたかで多くの人々の信仰をあつめている。尚、銚場とは直会場のことで江戸時代以前はこの広場で祭典の後直会を行っていたのである。

稲荷社入り口

大から小までお狐様の大集合

境内社・高房神社

素戔嗚命を祀る熱田社

境内社・大黒社

芭蕉句碑「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」

由緒は遙かな神代の昔、高天原の八百万神達は、我が国を「天孫天照大御神の御孫)の治める豊葦原瑞穂国」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定することが先決であると衆議一決しました。その為に二度も神の使者が送られたのですが悉く失敗し復命する者がありませんでした。 そこで改めて、天祖である高皇産霊神と天照大御神の命を受けて高天原より天下られた神がありました。 名を「武甕槌大神」と申し上げ、大神の御事蹟はまず出雲の稲佐の浜から始められました。この浜に大神は平国(くにむけ)の奇しびなる御剣を立てられ国津神の大国主命、その子事代主、建御名方の神々との国譲りの交渉に強い力を発揮され、その交渉に成功するのです。やがてそこより東遷して各地の平国と開拓に当たり最後に東路の果て、鹿島に止まりここから西の方に香取を臨みて鎮まられたのです。
第十代崇神天皇の御代(四世紀後半頃)に、多くの人々が疫病に苦しみ世はまさに困窮の極みにあったとき、奈良県二上山の頂に白衣(しろたえ)に白桙を持って立つ神があらわれ、「我を祀らば小国(おぐに)も大国(おおくに)も汝がすべての国を安んぜよう」との神示がありました。この神が「鹿島に坐(ま)す神」だと知らされた天皇は大いにかしこみ、ただちに多くの御幣物を鹿島の宮に奉納されました。 このことは第十代の天皇の御世には、鹿島の宮が既に存在していたことになります。
社伝によりますと、鹿島の宮の創建は初代神武天皇即位の年とあり、凡そ2660年ほど前のことだといわれます。 鹿島の神が神武東征の折り、「霊剣」霊の剣(ふつのみたまのつるぎ)により天皇をお助け申し上げた報恩がその由来とあります。
 いずれにせよ、鹿島神宮が関東でも屈指の 古社であったことは疑いを入れないところです。平安時代の延喜式では、神宮の号を持つお社は、伊勢を除いては鹿島と香取のみであったこと、二十年に一度の造替(ぞうたい)制度があったこと、更には天皇の一世一度の奉幣や立后(りっこう)の奉幣などによってもそのことは容易に窺うことができるでしょう。
 御祭神は古事記」「日本書紀」によりますと、武甕槌大神は、宇宙自然の創世に成りませる陰陽の神、イザナギ、イザナミの両神より生まれた火の神カグツチより誕生された、とされています。即ち原初の自然創世の頃に成りませる神であります。(鹿島神宮公式サイトより)


1948さんが初詣に行かれた、正月の鹿島神宮

拝殿前

奥宮への参拝客

要石の前

要石

神鹿について
鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神様のところへ、天照大御神様のご命令を伝えに来られたのが天迦久神という方で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。
神護景雲元年(767)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。
その鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨を初めとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。
また、鹿島も古くは香島と書いていましたが、養老七年(723)ごろから鹿島と書くようになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新に導入され、現在の神鹿はかつて鹿島から移った奈良の神鹿の系統を受けています。

さざれ石