阿彌神社

稲敷郡阿見町竹来 (平成24年10月20日)

東経140度14分16.83秒、北緯36度01分51.92秒に鎮座。

この神社は、阿見町役場の東2km程の辺り、霞ヶ浦に近い阿見町竹来(たかく)に鎮座しております。

阿見町名所百選 竹来の阿弥神社
竹来は常陸国風土記の普都大神降臨の地とされ、当社は 中世では庄内第一の惣廟として二の宮明神とよばれた。近世に阿弥神社と改める。社伝によると祭神は武甕槌命である。本殿は元禄4年(1691)の棟札があり、町内最古の建築である。神域を囲む樹叢は町指定文化財である。また境内に吉田麦翠の句碑「湖の風も通うて夏木立」がある。なお境内の西方に縄文中期の根田貝塚、南方に付近から出土した中世石塔群がある。

阿見町指定天然記念物 阿弥神社樹叢(竹来)
阿弥神社の創建は六〇七年、推古天皇(593〜629)の年代と伝えられる。創建当初より社格の高かった神社であり、この神域を取囲む日本杉の荘厳な樹叢は植樹期に関する確かな文献はないが、伐採した切株の年輪から推定すれば三〇〇年以上の歳月を経ていることは明かである。しかも千数百年の昔より、守護神として郷土の人びとの信仰の的となってきた阿弥神社の尊厳をいやがうえにも支えてきた貴重な樹叢である。
阿見町教育委員会

阿彌神社(あみじんじゃ、阿弥神社)は、茨城県稲敷郡阿見町竹来1366番地(旧信太郡竹来村)にある神社。古名は竹来三社、信太郡二宮、二宮明神。式内社論社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。阿見町中郷にも同名の阿彌神社がある。

竹来(高来、たかく)は、常陸国風土記の普都神話に由来する地名で、普都大神の登天(高往く)の聖地である。社地は霞ヶ浦に向いた舌状台地にあり、奥部は中世の竹来館(花ノ井館)の遺構である。この山を普都神話になぞらえて「楯縫山」という。
近世まで信太郡の西半45ヶ村の総社として、信太郡二宮(二宮明神)を称した。明治初頭の県社列格の同年、阿彌神社と改称。社名碑に「懸社延喜式内二宮阿彌神社」、鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に「縣社阿彌神社」とある。
信太郡一宮は、信太郡の東半の総社であった楯縫神社(美浦村)である。この二社は関係が深い。
・普都神話の聖地(甲楯を脱いだ地=楯脱、登天した地=高来)に由緒を求める。
・延喜式神名帳に記載がある(常陸国信太郡小二座)。ただし阿彌神社は論社。
・信太郡東西の総社であり、信太郡一宮(楯縫神社)、信太郡二宮(阿彌神社)と称した。
・南北朝時代はともに「庄内第一の宗廟」とされた(円密院文書)。
・両社で普都神話を縁起とする古式祭を行っていた。
・近代社格制度では県社に列格した。
鬱蒼とした鎮守の森を持ち、「阿弥神社樹叢」として阿見町指定天然記念物になっている。境内は茨城県指定緑地環境保全地域。参道からは7箇所に渡って北西にのみ小道が分かれ、それぞれ境内社の石祠または石碑を祀っている。本殿裏には巨木が立っている。樹叢に対し、裏手の竹林は荒廃している。
ウィキペディア より

阿見町には当社と、旧阿見村の阿彌神社(中郷)があり、式内阿彌神社の論社となっている。近世、村内の熊野権現と合わせて、三社で激しく式内社を争い、文政12年(1829年)に寺社奉行の勅許を仰ぐに至った。明治以後も論争は諸説紛々で、社格的に上である竹来が有力視されているが、大日本地名辞典、郡郷考、式社考等は中郷を比定社としている。
ウィキペディア より

参道入口

参道

境内

拝殿

拝殿前の江戸尾立。出来も保存も極めて良好。拡大写真はこちら。
(安永6年(1777)丁酉11月吉日建立)

拝殿内部

本殿


神楽殿

末社

石祠